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  • 投稿日時:2024/11/23

    ある人が、深刻な歯の感染症にかかったが、歯科医は放置した。しかしそれでも私は治ったと書きました。


    しかし、私はおそらくその歯科医は深刻な歯の感染症だと診断したのですから、適切な治療を行った後、慎重に経過を診たのだろうと考えました。しばしば患者は「薬が出ない、注射をされない、採血などの検査をされない」と「自分は放置された」と思い込みます。しかし・・・特に感染症においてそういうことが起きるし、慢性疾患である高コレステロール血症などでもそうなのですが・・・医者はその患者に検査とか、初期治療を行った後「慎重に経過を診て」、その後は特に投薬、注射、検査はしないが経過を見守る、と言うことをおこないます。それは放置ではありません。医者は慎重にその人の経過を診ているのです。何かあればすぐ介入出来るように「身構えて」いますが、そうやって経過を慎重に診たあげく、「うん、ここまで来ればこの人荷にはなにもしなくてよい」と判断すればその人には「もう治りましたから治療終了です」と告げます。ところが一部の患者さんは、これを「自分は放置された」と受け取ってしまうようです。無論、もっと懇切丁寧に時間を掛けて説明すればよいのかも知れませんが、石巻のように圧倒的な医療過疎の地域で診療している医者は、どうしても「必要な処置と判断」を優先せざるを得ません。石巻ははっきり言って都会ではありません。そういう、毎回毎回懇切丁寧な説明をする時間は無く、最低限の治療と適切な医療判断が精一杯というクリニックが・・・当院も含め・・・殆どなのです。

    座り心地のよいソファーに座って懇切丁寧な医者の説明を受けたければ、それは仙台か、むしろ東京に行って下さい。石巻の開業医は常時戦時医療のような診療を強いられているのです。最低限致命的なミスをしない。もうこれだけなのです。そこはどうか、ご理解ください。

  • 投稿日時:2024/11/23

    ある種の仏教の瞑想法では「今自分が行っている動作に心を集中させなさい」ということをやります。例えば「今自分は右手を挙げた、次に左手を挙げた」というように一つ一つ自分の動作だけに意識を集中させる。そうしている間に自然と雑念が消えるというのです。


    この「今やっていることだけに集中しろ」という方法を、私はもう少し広げて患者に試みることがあります。多くの患者さんは毎日仕事をしていて、そして仕事のことであれこれ悩んでいます。しかし仕事の悩みと言ってもそこには周囲との軋轢やら将来の心配やら家庭の問題やらが絡んでいます。家庭と仕事の両方に問題を抱えている人を休業させてしまうと、返って家庭の問題で頭がいっぱいになってしまい、逆に病状が悪化してしまうことがあります。


    そういう時私は時々「ではあなたは今あなたがやっている色々な仕事のうち、もっとも大事な課題だけに集中してご覧なさい」と言います。たいていの人は同時に色々なタスクをこなしているか、押し付けられています。しかし心療内科に訪れてきた段階で既にその人はそんなに多くの課題に同時に取り込むなんて言うことは出来ないのです。ですから患者さんがどうしても休業に同意しない、あるいは休業させると反ってよくないだろうと判断したときは、「一つのことだけに集中しなさい。そして周囲の人間とか上司とかという事はとりあえず忘れなさい」というのです。そういう患者さんは「今は休業しろ」と言ってもそれは受け入れないのですが、「一つのことだけに集中しなさい」というのは割合納得してくれるし、そうやっている内に自分を取り戻すという事はしばしばあります。

  • 投稿日時:2024/11/23

    身体の動きには、能動的なものと反射的なものがあります。また反射的だが意識すれば能動的に動かせるものもあります。さらに、能動的な動きも実は細かな調整は意識ではやっていません。

    能動的な運動、例えば歩いたり、こうしてキーボードで文字を打ったりすること。こういう動きをするとき、意識は「冷蔵庫に飲み物を取りに行こう」とか「これこれという文章を書こう」という事を考えます。ですが、実は「冷蔵庫の場所まで歩く」というのは殆ど小脳や大脳黒質による「錐体外路系」というシステムで自動調節されています。これが上手く行かなくなるのがパーキンソン病です。パーキンソン患者は末期になるまで認知機能は正常です(末期には認知症を伴い、要するにレビー小体病になります。レビー小体型認知症とパーキンソン病に伴う認知症は、最終的には同じものになります)。従って「これこれをしよう」という事は考えるのですが、実際にそれをしようとしても、手は震えるし足はふらつき、さっぱり自分の手も足も思うようには動かせません。つまり、能動的な運動と言ってもそれをスムーズに行うのは無意識の領域である「錐体外路」なのです。

    自分の身体の動きでありながら全く自分の意識ではコントロール出来ないのは内臓の動きです。心臓には心臓そのものに拍動を調節するシステムがあり、これは自分の意識とは通常無関係に作動します。だから我々は「さあ、心臓の拍動を早めましょう、遅くしましょう」ということは出来ません。消化管の蠕動運動もそうです。しかし、そうでありながら、心(こころ)が緊張すると頻脈になるし、緊張すると下痢する人はたくさんいます(私もその一人)。つまりこうした無意識の運動も、自分の思い通りにはならないけれども心の影響を受けます。

    一方、通常無意識な反射運動でありながら、意識でコントロールしようと思えば出来る、という運動もあります。例えば咀嚼、嚥下などです。通常我々は「さあこのブリの照り焼きを食べよう」とは思いますが、ブリの照り焼きを口に入れると、「さあこの切り身を噛みましょう」とは思いません。また「さあ、充分に咀嚼したから飲み込みましょう」とも思いません。口は勝手に噛み、適当なところまで噛んですりつぶすと舌や咽頭が勝手に嚥下反射をおこして嚥下します。適切に噛み、すりつぶすと舌や喉頭、咽頭が非常に巧緻な連係プレーで食べ物を嚥下し食道に送り、食道にものが入ると食道も自動的に蠕動運動をしながらそれを胃に送ります。これら全ては極めて巧緻な連係プレーですが、我々をそれを一切意識しないで行っています。

    しかし通常無意識な反射で行われるこうした運動も、意識で制御しようとすれば出来ます。「さあ、これからこの切り身を噛みましょう、まず噛んだから次は奥歯ですりつぶしましょう、充分すりつぶしたから飲み込みましょう」というように、意識的にこれらを行うことは可能です。しかしながら、こうした動きも脳の一定の部位(大脳基底核など)に脳梗塞などの障害が生じると、噛もうと思っても噛めない、飲み込もうとしても上手く飲み込めない、と言うことになってしまいます。そういう時無理に飲み込んでも誤嚥して誤嚥性肺臓炎を起こします。

    錐体外路系の中枢は大脳黒質という、ほんの小さな部位です。しかしここにドーパミンという、錐体外路系で作用する神経伝達物質を出す機能があるのです。それが出なくなる、あるいは不足するのがパーキンソン病ですが、どうして大脳黒質で分泌されるドーパミンが不足したり出なくなったりするのか、と言うところまでは未だによく分かっていません。ただドーパミンが不足するからこういう現象が起きるのだ、と言うところまでは分かっていますから、パーキンソン病の治療には外からドーパミンを薬物として入れる、あるいはドーパミンの働きを助ける物質を薬剤として入れるということをやります。

    一方、統合失調症やアルツハイマー病・レビー小体病が進行した症例では、このドーパミンが過剰に分泌されるか(統合失調症)、セロトニンなど他の神経伝達物質とのバランスが崩れて(アルツハイマー病など)興奮、幻覚、妄想などを起こします。そこで、メジャートランキライザーと呼ばれる一群の薬剤でドーパミン系を遮断します。そうするとその様な症状は治まるのですが、当然副作用として薬剤性パーキンソン症状が起きてしまいます。その結果、特に高齢患者では誤嚥性肺炎や転倒・骨折が起きてしまいます。

    ところが、ドーパミン系を抑制しないで認知症患者の興奮、幻覚、妄想を低減する方法があるのです。それは、グルタミン酸経路を抑制するという方法です。グルタミン酸も他の神経伝達物質とのバランスが崩れるとこうした興奮、幻覚、妄想などを引き起こします。だからドーパミン系を抑制する代わりにグルタミン酸系を抑制してこのような効果を引き出そうとしたのが抑肝散です・・・と言うのは嘘で、実は最初に抑肝散にこのような効果があるという事を私が臨床研究で証明し、それはいったいどのような薬理機序なのだろうかと基礎研究者が色々と研究した結果、抑肝散はドーパミン系を抑制せずグルタミン酸系を抑制することで、薬剤性パーキンソン症候群をおこさずに認知症患者の興奮、易怒、妄想、幻覚などを軽減出来るのだ、と分かったのです。

    漢方というのは理屈じゃない、学問じゃない、技だという連中がいますが、実は全然そうじゃないんです。漢方医学は学問です。化学的にその薬理機序を研究し、明らかにすることが出来るのです。

  • 投稿日時:2024/11/20
    「金の神様」。論評抜き。
  • 投稿日時:2024/11/20
    今日ある患者さんと「金の神様」の話になった。無論詳細は伏せるが、私はその患者さんに「佐藤さん(仮名)、エホバがいるかアッラーがいるかは分からないけど、金の神様だけは本当にいますよ。でも神様なんだから、当然毎日あがめ奉って上げ膳据え膳しないと、神様はいなくなってしまうんだ」と言った。


    患者さんはしばらくあっけにとられていたが、やがて私の言葉の意味が分かったらしく、最初はクスクス苦笑いを始め、やがて破顔一笑して診療が終わった。


    その人に何故金の神様の話をしたのかは当然書かないが、何故私が「金の神様だけは実在する」と確信したのかという理由は、別に書いて問題はない。それは無論、このあゆみ野クリニック開業の顛末だった。


    そもそも私は一昨年の7月、このクリニックの雇われ院長として呼ばれた。額面だが年収1800万。無論悪くない話で、仲介してくれたのも信用出来る(筈の)人だったので、私はその条件でこのクリニックに赴任した。


    ところが、去年の2月、当時ここを経営していた法人の会長が突然クリニックに来て、


    「先生、悪いんだけど、来月から先生達の給料払う金が無いんだ。先生経営してくれない?」・・・。


    信じられないかもしれないが、人生にはこう言うことが起きるのだ。まあ、私の人生の中では東日本大震災、直腸破裂による急性腹膜炎でICU2週間入院に次ぐ、成人してからは自分の人生で3回目の青天の霹靂だった。子ども時代にはさらに何回か青天の霹靂を経験しているのだが。


    銀行に駆け込んで副支店長に訳を話したら、副支店長が目を丸くして・・・そりゃ当たり前だが・・・え、来月ですか!?という。ええ、来月からだそうです。いや来月と言われましても、融資って来月には無理だし、みたいなごくごく常識的な会話の後、どういうわけか私は本当に来月、つまり去年の3月からここの経営者になった。


    実は去年の1月頃まで、このクリニックはその法人経営の元で大儲けをしていた。しかしその原因はコロナコロナコロナだった。つまり当時はたっぷり点数の上乗せが付いた発熱外来とコロナワクチン打ちまくりであぶく銭を稼いでいただけだった。ところがそのコロナが「もう2類でもあるまい」となった途端、ここはその本当の姿をさらけ出した。つまり、発熱外来が儲からなくなりワクチンがなくなったら、掛かりつけの患者はほとんどいなかったのだ。連日発熱患者とワクチンで立て込んでいた外来から、患者の姿が消えた。それで法人会長は、「もう儲からないからやーめた」と言い出したわけだ。


    それで、去年の2月に駆け込んだ銀行から融資が実行されたのが5月末だった。その間およそ3ヶ月で1500万あった私の貯金は0になった。クリニックの口座であれ私の個人口座であれ、ともかく金というものは一切なくなった。


    本当に文字通り一切金という金が銀行口座から消えたのが5月の第2週だった。その時は、銀行と金融公庫から融資の決定は知らされていた。つまり決定は下りていたが、実行は5月末だった。つまり、概ね2週間、クリニックにも私の個人口座からも完全に金というものが消滅した。


    思いあぐねた末、私は遂に禁断の金に手を付けた。第一生命に30年積んでいた「年金型生命保険からの貸し付け」だ。30代の頃契約したこの生命保険は、生命保険としては旧式で、入院しても4日目からしか金が下りず、あまり役には立たなかった。最近4日以上の入院というのは中年までは殆どないから。しかしこの保険の旨味は「年金型」という所だった。つまり、60歳の誕生月の前の月まで保険金を払えば、60歳になった途端、終身毎年120万の年金が下りる。そして、年金が開始される前までなら、そうやって貯めた金を必要なときに貸し付けとして借り出すことが可能だった。


    しかしこの「貸し付け」の利用は極めて危険な行為であった。なぜなら60歳になる前月までに借りた金を全額返済していないと、年金そのものが無しになる。その時は、年金分として計算された金額から借りていた金を引いた額が戻ってくるが、それだけだ。


    しかし、全ての金という金が尽きた去年5月の第2週、遂に私はその「貸し付け」に手を付けた。それも300万。


    貸し付けはそんじょそこらのATMで出来るのだが、その金を引き出したとき、私の手は振るえ、心臓は早鐘のように胸を打ち、意識を保つのすらやっとだった。だって、その時私は58歳。8月には59歳になるという状況の5月。もしこの300万を自分が60歳になる来年(つまり今年)の7月までに全額返済出来なければ、営々と30年積み立ててきた年金が消滅するのだ。しかし、融資は既に決定されていたし、融資の実行もその月の月末と分かっていた。


    しかしだからと言って、その融資の金が実際にその時点で私の銀行口座に存在したわけでは無かったのだ。あくまで実行は2週間後だった。


    1600万という金が本当にクリニックの口座に振り込まれるまでの2週間あまり、私はどうしていたか殆ど記憶がない。ともかく少なくとも私の頭の中では、私はクリニックでは医者として振る舞っていたことになっている。しかし無論家では毎晩気が狂ったように・・・いや実際狂気に囚われ、大量の酒で睡眠薬と安定剤を流し込んで布団に入ってもまんじりともせず、夜中にしばしばガバッと起き上がると心臓はドクドク、冷や汗が流れ、無論相方には毎晩のように当たり散らした。


    予定された日の朝、出勤前にコンビニのATMに立ち寄って実際に融資の金が振り込まれているのを目前にしたとき、私はまさに全身の力が抜けた。すぐさまそこから300万を下ろし、第一生命に戻した。今年の8月にその最初の年金1年分120万が私の個人口座に振り込まれたとき、私がどんな感情に包まれたかは、ちょっと私の筆に余る。


    その時、私はまさに「この世にエホバがいるか、アッラーがいるか、阿弥陀如来がいるかは知らないが、間違いなく「金の神様」はいる」と確信したのだ。


    皆さん、この世で唯一確実に存在するのは、金の神様です。金の神様だけなんです、実在するのは。


     
  • 投稿日時:2024/11/16

    一枚の、まあA4ぐらいの大きさの紙を用意します。そしてその紙を、縦線と横線で4区画に分けます。


    縦線には上向きの矢印、横線には右向きの矢印を付けましょう。縦線は「仕事の重要度」を表し、横線は「緊急性」を表します。つまり、上の右のますは「重要で緊急」、上の左のますは重要だが急ぎではない、むしろ時間を掛けてゆっくり取り組んだ方が良いことです。下の右のますは急ぎだが重要では無い事、例えばクライアントがわーわー言ってきているが内容的には重要ではない、と言うようなことです。そして下の左のますは、需要でも緊急でも無いこと、つまり下らないことです。


    今あなたが抱えているタスクを10個以内思いついて、それぞれを4つのマスに割り振ってください。もしあなたが自分の関わっているタスクを11個以上思いついてしまうなら、それはその時点であなたはタスクを抱え込みすぎだ、という判断になるので、11個目以上は問答無用に切り捨てです。要するに自分が手に負えない量のタスクを抱え込んでいるという事が既に明らかなわけです。


    それではあなたは自分の関わっているタスクを上の四つのマスに割り振ります。もしあなたがタスクの殆どを「重要かつ緊急」に割り振ってしまったら、それはその時点で実はあなたはご自分のタスクについて冷静に判断が出来ていない、と言うことを表します。だからその時は一回深呼吸して「いや、これは自分の判断が間違っている証拠だ」と考え、改めて割り振り直してください。


    さて、4つのマスにあなたのタスクを割り振ったら、まずあなたは「重要で緊急」に割り振ったことを最優先すべきです。そして「重要ではあるが緊急ではない」というタスクは後回しにしても良いが忘れないようにして、じっくり取り組みましょう。「緊急、あるいは急ぐけれども内容は重要ではない」事は誰かに振って(あからさまに言えば押し付けて)仕舞いましょう。急ぐんだから誰かがやることは必要ですが、重要じゃないんだからあなたがやらなくてよいのです。


    最後に、「重要でもないし緊急でも無い」と判断した事案は、「棚上げ」にすればよいのです。本当ならこれらは止めてしまうのがよいのですが、日本の社会や集団では「何かを自分の判断で止める」というのが極めて面倒です。だから棚上げにするのです。「棚晒し」と言った方が良いでしょう。そうしておくとこういう案件は、そのうちなんとなくうやむやになってしまうものです。ある時ふと「あー、そう言えばああ言う話があったなあ」と誰かが思いついても既にその案件は死んでいますので、それで消えていって貰えばよいわけです。


    これが私の「仕事の整理法」です。

  • 投稿日時:2024/11/15

    金儲けの知識の方が古典より大事だと抜かした福沢諭吉の馬鹿な文章を引用した奴がいた。


    今私の「高齢者のための漢方診療」は北京中医薬大学金光亮教授によって、翻訳出版の最終段階にある。金教授は一年掛けて私の本を訳した。その間教授はしばしば私の本の内容について中国伝統医学古典、特に彼の専門である黄帝内経や、あるいは傷寒金匱、脾胃論、ないし朱丹渓の著書などを引いて疑問、質問をぶつけてきた。だから私もそういう古典の文章を引用しつつ、これはこう言うことです、これはこう言う伝統医学の思想を元にはしたが、本の読者として想定したのが西洋医学の医師達だったため、このようにかみ砕いて説明したから、若干もともとの表現とはずれています、などと説明して回答した。


    このようなやりとりが出来なければ、どうして北京中医薬大学教授が私の一般医家向けの漢方書をⅠ年以上も掛けて翻訳してくれたであろうか?


    私がハウツー漢方だの最近の日本の漢方医の本しか読んでいないと分かれば、金教授はこれほどの努力をして私の本を訳してはくれなかっただろう。


    今、中国があらゆる意味で世界のセンターになっているのは論を待たない。その中国の人々が外国人について「なるほどこの人はまともだ」と受け取るのは、単に金儲けが上手いだけでは駄目だ。中国の古典でなくても、例えばギリシャ哲学やローマの哲学者の書などは読んでいる、仏教の古典は読んでいると言うようでなければ彼らは相手にしない。「無学無教養な徒」は単に彼らの掌に転がされるだけだ。

     

    教養というのは、テストの点数を取るために勉強するわけじゃないんです。

  • 投稿日時:2024/11/10
    とある老人病院に勤務していたとき、患者が肺炎になった。老人病院に入院しているような高齢者が肺炎を起こすのは日常茶飯事なのだが(大抵は誤嚥性肺炎)、その患者の肺炎はどうも様子が違った。抗生物質を連日注射しても高熱が続く。そもそもフレイルな(体力が弱った)高齢者の肺炎は、そんな高熱は起きない。一日熱が上がっても、すぐ下がってしまう。熱が下がったから肺炎が治ったのかというと、そうではない。要するに身体の免疫応答が細菌感染に負けてしまって、発熱出来ないのだ。


    ところがその人は、抗生物質を注射しても高熱が続いた。どうも変だ、とCTを撮ったら(何故かその老人病院にはCTがあった)原因が分かった。肺炎ではなく膿胸だった。


    胸腔の感染症には三つある。肺炎、膿胸、肺膿瘍。肺炎は抗生物質を注射するだけだが、膿胸や肺膿瘍は要するに胸腔内に膿が溜まっているので、その膿を掻き出さなければ治らない。何故なら膿の中に抗生物質は浸透しないからだ。


    さて困った。そこはど田舎の老人病院だ。町の病院に相談したが、治療はつれなく断られた。「年齢が年齢だし、ADLも寝たきりだし」というわけだ。まあ、御説ごもっともである。それで家族を集めて病状説明したら、なんと「どうにかしてくれ」という。いやどうにかしてくれと言っても,膿胸ってのは胸に管を刺して中の膿を掻き出さなきゃならないんだが、その人は非常に高齢な寝たきり老人だから、そういうことをやっただけで死んでしまうかもしれない。それにそういうことを試みても上手く行くかどうか分からないし、仮に上手く行っても患者が助かる保証は無い・・・と言うことを縷々説明したのだが、


    「お願いします」。


    覚悟を決めた。院長、病棟師長、事務長と話し合い、家族に念書を取った。その上で私はエコーを持ってきて,膿胸部位を確認し、局所麻酔をしてブスリとベニューラを刺した。無論この作業は医者一人では出来ない。二人でやる。一人がエコーを当てながらもう一人(私)がそこに針を刺したのだ。


    膿胸の場合、通常であればトラッカーという管を入れるのだが、その人は非常に体格が小さな老人で、かつ膿胸もそれほど広範囲では無かった。だから私は敢えてトラッカーでは無くベニューラを刺したのだ。ベニューラというのは針の中では太い奴で、通常人体には刺さない。薬液を吸い込むときなどに使う。しかし膿胸に刺して膿を出そうと言うときに21Gなどでは細すぎるから、私はトラッカーでも無く21Gの針でもなく、ベニューラを刺した。そうしたら中から膿がドロドロ出てきて、出終わった頃に逆に外から生理食塩水を入れて何回も洗った。頃合いをみて針を抜き、仮縫いを一糸かけて翌朝まで様子を見たら、翌朝にはストンと熱が下がっていた。


    まあ、これはたまたま上手く行ったのだ。いくら家族に懇願され、念書を取っても、いざ失敗すれば家族は必ず裁判を起こす。世間とはそう言うものだ。だから私はその晩、睡眠薬を飲んでも眠れなかった。2回ほど病棟に電話して患者の容態を確かめた。


    ところがその病院は、あるとき系列の診療所で患者がさっぱり来ないときに私が居眠りをしたという理由で、理事長が私を追い出した。そこは理事長がオーナーの医療法人で、院長も事務長も何の権限もなかったが、そのような危険な橋を渡ってまで私が患者を助けたことは一切評価の対象にならず、「患者がさっぱり来ない外来で居眠りをした」という理由でお払い箱になった。


    トップの評価なんか、全く当てにならないものだ。まして患者の評価おや。その理事長は少なくとも元外科医だったくせに、そういう危険を冒してまで患者を救った私の診療は一切評価せず(おそらく理事長にはその一件は伝わっていなかったのだろうが)、私が患者が来ない外来で居眠りをしたという理由で首にしたのだ。


    だから私は皆さんに言うが、職場で、あるいは上司に正当に評価されないなんて事でへこむ必要はありません。どうせ上司なんか、あなたのことをきちんと正当に評価してないから。


     
  • 投稿日時:2024/11/10

    実は「介護保険を基にした在宅医療・介護」という制度は、「イエ」という価値観を基にして成立したものでした。訪問診療に国が保険点数を付けるようになったのが1980年代です。それは徐々に拡大されてきました。しかしそう言う流れの背景には「お嫁さん」がいたのです。当時はお嫁さんが義父母の介護をしていました。つまり国は「ほう、ここに人件費0の介護者がいる」と考えついたのです。だから施設介護より安上がりだとね。


    国が何か医療介護福祉の分野で何かを始めるとき、その本音は常に「安上がりかどうか」なのです。当時は「お嫁さん」という人件費0の介護者がいたからそういうそろばん勘定になったのですが、今はいません。だから国は今年から一気に在宅関係の点数を減らしました。人件費0のお嫁さんがいなくなった以上、在宅医療介護は不経済、と言うわけです。
    つまり、嫁が夫の父母の介護をするのは当たり前という常識の元に始まったのが在宅というもので、それが消滅した今、在宅医療介護看護そのものの価値も否定されつつあります。価値が否定されつつあるというのは語弊がありますが、少なくとも「安上がりかどうか」しか評価基準が存在しない公的保険の世界では「無駄だ」という評価に変わってきているのです。無論、住み慣れた家で最後まで生きたいという人はいますが、今後は「それならそれは自費でどうぞ」になっていくのでしょう。いやな話ですが。

  • 投稿日時:2024/11/09

    私は今日、悟りに達した。実は私は頻繁に悟りに達している。


    なんて言ったら、お前は馬鹿かと人は言うだろうが、それはこう言うことだ。


    私は一週間ほど前から、右下の奥歯、大臼歯の痛みでもだえ苦しんでいる。木曜日に歯医者に行ったら、大臼歯の歯根部に感染が起き、炎症が起きているという診断だった。激痛なのだ。それで歯医者でかぶせ物を外し、歯根部の神経が通っている管をぐいっと広げてそこに生じている感染部位をやっつけ、消毒剤を入れて仮蓋をしている。しかし今日、また私の大臼歯は相当に痛み出した。それで歯医者に頼んで明日また(日曜日にもかかわらず)再受診する。


    ところが、その私の歯の激痛は、私が心から診療に没頭している間は、何故か消えてしまう。目の前の、人生を背負ってやってくる患者に正面から相対しているときは、どういうわけか歯が痛まない。しかし外来が終わった途端、再び私は歯痛で悶絶する。


    つまり、外来で患者に相対していて、その患者のことだけを考えているときは、歯の激痛をも含め、他の一切は忘れているのだ。いや、忘れているという表現は適切ではない。私は外来中も、いや、さっきまで俺は奥歯が痛かったときがつく。ちゃんと意識はあり、正常なのだが、私の意識はともかく患者に集中しているので、そんな歯根部に感染が起き、炎症になって激痛を生じているという事すら、消えるのだ。それは、例えば麻酔薬を打って眠っているからその間は痛みを感じないという状態とは違う。私は間違いなく完全に覚醒しており、私の大臼歯にそういう病変があり、それがついさっきまで激痛を起こしていた、と言うことを分かっている。だから自分では「今私は奥歯に激痛があるはずだ」と思うのだが、しかし患者の診療に集中している間はいくら激痛があるはずだと考えても激痛を感じない。しかし診療が終わった途端、激痛が再発する。朝ロキソニンを飲んだがロキソニン程度ではこの傷みは全く改善しない。


    これは不思議なことだ。私は完全に覚醒しており、眠っていたり意識レベルが下がっているわけではない。そして外来診療が始まる直前まで、私は歯に激痛を感じていた。ところが、外来診療中は、「私の歯は感染による炎症が起きていて、それは木曜日の治療では完治しておらず、ついさっきまで激痛だったんだから今も激痛を感じるはずだ」といくら考えても激痛が起きない。ところが診療が終わった途端、激痛が蘇るのだ。


    これは一過性ではあるが、一種の悟りなのだ。つまり、患者の診療にだけ私の意識が集中しているときは、歯根部に感染が起き炎症が起きることによって生じる凄まじい激痛すら、完全に意識があり理解力があるにもかかわらず、感じない。このとき私の意識は完全に患者の診療だけに集中しているから、例え腕を切り落とされても平然としているのだろう。だって歯根部に感染が起きたときの痛みというのは、まさに腕か足が切り落とされたと同じぐらいの激痛だから。


    悟りというのはそういうことだ。その一瞬に全ての意識を集中すると、余念が一切消える。余念を思い起こそうとしても、出てこない。意識が低下しているのでもなく、余念を忘れているのでもない。意識は清明で、「さっきまで激痛で、その激痛の原因は今も存在しているのだから自分は今も激痛を感じるはずだ」と分かっていても、診療に集中しているときはどう頑張ってもその激痛が生じない。ところが診療が終わった途端、当然ながらその激痛が蘇る。


    悟りの本質はこれだ。一切の意識をあることだけに集中させると、他に対する意識も感覚も消滅する。これは思い込みとかそういうことではなく、実際にそうなるのだ。それをずっと継続出来れば私もブッダになれるのだろうが、残念ながら私がそういう境地になるのは患者の診療に集中している間だけである。一過性の悟り?知らんがな。

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