石巻あゆみ野駅前にあるあゆみ野クリニックでは漢方内科・高齢者医療・心療内科・一般内科診療を行っております。*現在訪問診療の新規受付はしておりません。
「日本と中国では何所で伝統医学が別れたのか」
2025/06/01
よく「漢方は中国を源流とするが江戸時代に独自の変化を遂げた日本独自の医学だ」という主張が聞かれます。なにしろ日本東洋医学会がそう主張しています。
しかし医学の分野では、江戸初期の田代三喜や曲直瀬道三も忠実に中国医学を導入しています。曲直瀬道三の「察証弁治」は中医学の「弁証論治」と基本的に同じ概念です。
実はこのような流れは幕末まで続いたのです。19世紀末に幕府は蘇州の名医を長崎に招き、多紀元堅らを長崎に派遣して清朝の医学医療情報を細密に聴き取っています。彼らの交流は2年にもわたりました。
つまり、「漢方は中国医学を源流とするが江戸時代に日本風に変化した」という東洋医学会的説明は、古方については当て嵌まりますが、江戸時代の公的医学であった江戸医学館などについては嘘なのです。当然彼らは呉有性の温疫論や清代の温病学派の理論も、殆どup to dateで知っていました。それが現代日本の漢方に伝わらなかったのは、日本では明治になって一度伝統医学が廃止され、その復興を唱えた連中が生きていたのが丁度日清・日露戦争の頃だったからです。つまり伝統医学復興を唱えた連中にとって清代医学は既に学ぶべき対象ではなくなっていたので、温病論は日本では受け継がれなかったのです。
しかし医学の分野では、江戸初期の田代三喜や曲直瀬道三も忠実に中国医学を導入しています。曲直瀬道三の「察証弁治」は中医学の「弁証論治」と基本的に同じ概念です。
実はこのような流れは幕末まで続いたのです。19世紀末に幕府は蘇州の名医を長崎に招き、多紀元堅らを長崎に派遣して清朝の医学医療情報を細密に聴き取っています。彼らの交流は2年にもわたりました。
つまり、「漢方は中国医学を源流とするが江戸時代に日本風に変化した」という東洋医学会的説明は、古方については当て嵌まりますが、江戸時代の公的医学であった江戸医学館などについては嘘なのです。当然彼らは呉有性の温疫論や清代の温病学派の理論も、殆どup to dateで知っていました。それが現代日本の漢方に伝わらなかったのは、日本では明治になって一度伝統医学が廃止され、その復興を唱えた連中が生きていたのが丁度日清・日露戦争の頃だったからです。つまり伝統医学復興を唱えた連中にとって清代医学は既に学ぶべき対象ではなくなっていたので、温病論は日本では受け継がれなかったのです。