雄勝物語・税金で街は復興出来たか

2023/07/24

これは、悲しい物語です。しかし石巻市民にとって、目を逸らしてはいけない事実です。

私は7年前に雄勝の診療所長を7か月やりました。あのときの経験は、今に到るまで私の人生で前代未聞でした。

雄勝は現在の石巻市に含まれる範囲ではもっとも甚大な震災被害を受けました。旧市街地は港を囲む海沿いにあったので、津波で完全に破壊されたのです。全て、何も無くなりました。辛うじて生き残ったのはリアス式海岸の山の上に点在する集落だけです。かつての雄勝は古いとは言え三階建て鉄筋コンクリートの公立病院があり、そこにはCTもあり、街には開業医もいたし薬局もあったしスーパーもコンビニもありました。要するに普通の田舎町だったのです。人口は4千人でした。 それは震災で一挙に消滅しました。何処が被害を受けたと言うより、街がそっくり消滅したのです。

それで、雄勝をどうしようかという話になったのです。石巻市の上層部は「さすがにあそこは無理だろう」と考えたようです。しかし当時の民主党政権は、復興は地元住民の意向に従うという原則を打ち出しました。そこで地元住民が話し合って作った復興案というのが、絶句するほか無いものだったのです。

基本コンセプトが「4千人の街を取り戻す」でした。しかも、もともとの街があった海辺の平地にまた街を作っても流されるだけですから、巨大な防波堤を作り、流されて更地になった元の中心街全体を高さ15メートルの高台にし、その高台に作られるであろう未来の街の中心街と周辺の山々に点在する集落とは高架道路で結ぶというのです。

凄まじい巨大工事が始まりました。金は湯水のように降ってきます。私が赴任したのは7年前ですので震災から4,5年経った頃でしたが、全域が大工事現場でした。高架道路というのは概ね出来上がっていました。雄勝に首都高みたいな高架道路が作られたのです。高台はやっと赤土を盛り上げたばかりで、ブルドーザーが走り回っていました。消滅した公立病院の代わりに、小高い丘に市立の診療所と幼稚園が建設中でした。元々鉄筋コンクリート造りで大きな体育館も付いた小中学校が2つあったのですが、それを2つとも無くして新しく小中学校を作っていました。驚くことに、診療所も幼稚園も小中学校も、全て総檜造りです。今の時代、総檜造りって1つ一億ぐらいでは到底出来ないですよ。でもともかく金だけはいくらでも降ってきたので、全部超豪華に作ったのです。

しかしこれは完全に裏目に出ました。これだけの巨大事業を一気にやった。一向に工事は捗りません。5年経ってもみんな戻るところが無いのです。スーパーどころかコンビニ一軒すら無い。周り中工事現場でブルドーザーやダンプが行き来しているだけの所に、人は戻れません。結局元の住民は蛇田当たりに皆移住してしまったのです。そっちで復興住宅に入ってしまいました。

私が赴任していた当時で雄勝地区の人口は2千でした。4千から2千に減ったのです。それでも工事は止まりません。政権は民主党から安倍自民党に変わりましたが、巨大土木工事は一切見直されること無く続きました。 新しい診療所の隣の敷地が新しい幼稚園だったので、雄勝総合支所の役人に訊いたことがあります。この幼稚園、何人ぐらい入園するんですか、って。そしたら4人だって言うんです。二千人がどうにか残っていた当時、利用予定者が4人。

4人と言えば、その頃診療所に来る患者数が一日平均4人でした。朝巡回バスに乗ってくるお年寄り達です。その人達車の運転が出来ないので、巡回バスが戻ってくる昼過ぎまで診療所でおしゃべりしてます。他にはまず来ないのです。

漁業はどうなったか。漁業は続けられたのです。港はいの一番に修復されました。ところが漁民は皆、石巻の新興開発地である蛇田辺りから通勤してくるんです。雄勝は何年も何年も住める状況では無いので、その間にみんな蛇田とか、今私がクリニックを構えているあゆみ野などの復興住宅に移ったんです。それで、毎朝そこから雄勝の港に通勤するんです。当時私も蛇田のアパートから雄勝の診療所に通いましたが、北上川の堤防沿いの道を走ると、朝は石巻市内から雄勝に行く車がかなり混むんです。逆じゃ無いんです。雄勝には人が住んでないので、雄勝から石巻に通勤する人はいない。でも石巻から雄勝の港に通勤する人はいるんです。そもそも雄勝総合支所の職員のほとんどが石巻からの通勤でした。辺り一面工事現場で、コンビニもスーパーも無いところに、住めるわけ無いのです。

市立の診療所は市の健康部という所の管轄なんですが、一度健康部長が診療所の現状を見に来ました。半日居て4人しか患者が来ないのを見て、健康部長が言うわけです。「先生、ここに常勤の医者ってどうなんでしょうね」。私は黙って首を横に振るしか無かったです。そうしたら健康部長が、「そうですよね・・・」と寂しげな笑みを残して帰って行きました。

それが7年前です。直近の統計では、その当時二千人残っていた雄勝の人口は、さらに千人にまで減ったそうです。あの総檜造りの幼稚園に今園児がいるのかどうか、私は知りません。街の中心街になるはずだった広大な高台は、いま太陽光パネルが敷き詰められています。結局のところ、人は戻ってきませんでした。「人が住み暮らす街」としての雄勝はやがて消滅するでしょう。漁業は残りますが、漁業権を持つ人々は皆蛇田とかあゆみ野から通勤するのです。 雄勝に何兆円税金がつぎ込まれたか分かりませんけど、人がそこに住める街というものは、どれだけ税金をつぎ込んだからって出来るものではないのです。

PAGE TOP