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  • 投稿日時:2025/05/15
    ある私の治療が著効した患者さんが今日私に言いました。

    先生のことをネットで調べましたが、凄い方なんですね。凄いお立場だったんだ。

    私は言いました。


    「ああ、あんな立場や地位は、全部捨てました。ある事件に巻き込まれたことがありましてね、その時分かったんです。地位や名誉や立場なんてものは、全部首に付いた縄だと。何かあると、ああ言うものが自分の首を絞めるんです。結局それだけなんだと分かったから、そう言うものは全部捨てたんです」。

    患者さんは思わず大笑いしていました。
  • 投稿日時:2025/05/15
    これから思い切り毒を吐きます。しかしこれは1つもの通り、事実なんです。

    自殺未遂をくり返したりリストカットが常習化している女性はたくさん受診します。しかしそういう人の真の自殺率は、それほど高くありません。そういう人は、「自分は辛い」という信号を周囲に発信していますから、周囲も気を配っています。だからそういう人の自殺率って、実はそれほど高くないのです。

    本当に怖いのは、何も前兆がない中年男性です。仕事では上下に押しつぶされ、家に帰ると妻には愛想を尽かされながら「子どもの教育費が足らない」と毎晩苦情を言われる。それに対してそういう中年男性は全てを黙って無視するのですが、ある晩突然自殺します。

    わーわーと「私は苦しい」と情報発信する女性は、それなりに受け止めようがありますが、全ての苦悩を黙って抱え込んである日突然自殺する中年男性の苦悩をそこに到る前に察知するのは、至難の業、あるいは殆ど不可能なのです。




     
  • 投稿日時:2025/05/15

    医者が懇切丁寧に診察すると、高い検査代が不要になる。看護師が懇切丁寧に看護ケアをすると患者は重症化せず、医療の必要性が減って医療費が下がる。

    なのにどちらも医療保険上全く評価されない。医者も看護師も機械的に患者を動かして検査検査と廻して「検査で異常ありません、心療内科に行きなさい」というのが一番効率的に金になる。

    なんなんだこれは!?

    考えられる理由はただ1つしかありません。医師や看護師の真摯な労働を評価せず、検査には金を出す。つまり検査会社、検査機器会社の利益を最大化させるという事です。採血するというと「クリニックが儲けるんだろう」と思う患者さんは多いのですが、採血代の殆どは検査会社が持っていきます。子宮頚癌ワクチンは医者の金儲けのためという患者さん、あのワクチン代の殆どはワクチン会社に入るのであって、医療機関の粗利は数千円です。

     

    なんだか一番しわ寄せを食って、あっちこっちから非難されている感じがします。

  • 投稿日時:2025/05/15
    今日産業医の職場訪問で話したこと。

    1.マイコプラズマ肺炎と百日咳の流行が続いています。空咳をしている従業員は内科受診させてください。マイコプラズマはインフルエンザ並の感染力で、しかも肺炎を起こします。

    2.食中毒の季節になりました。特に調理場は必ずスタンダード・プリコーション(標準感染防御)を徹底してください。石けんで手洗いするだけでは駄目です。アルコール過敏症でない方は、必ず手指をアルコール消毒すること。
     
  • 投稿日時:2025/05/10

    最近来た患者。


    職場で同僚に、客がいる前で指さされ罵詈罵倒される、本人が書類を作っているとき、同僚にモップで足を数回突かれる、あんたの性格が気に入らない、存在が嫌いだと言われる。やっているのは一人だが、職場に訴えても配置転換してくれただけ。


    その患者の口癖は「じゃないですけど」だ。罵倒された「じゃないですけど」、モップで足を突かれた「じゃないですけど」・・・。


    30分ほど話を聞いた頃、合間で私が割って入った。さっきからあなたは「じゃないですけど」と言ってますけど、それ全部そうされたってことですよね?


    ええ、そうなんですが、そう言ってしまうと相手の方になんか悪口を言っているように聞こえてしまうのかなと。


    いや客がたくさんいる前で指さされて罵詈罵倒されるって立派なパワハラだし、モップで足を突かれたらそれはもうパワハラではなく刑法の暴行罪です(刑法208条、2年以下の懲役もしくは30万円以下の罰金)。もし突かれたときほんのちょっとでもあなたが擦り傷を負えば傷害罪(刑法204条、15年以下の懲役あるいは50万円以下の罰金など)です。あなたは暴行罪を受けた被害者なのに、まるで加害者に遠慮するような話し方をしているけど、私に言わせるとどうしてあなたがそんな言い方をするのか不思議で仕方が無いんです。


    あなた高校は?「石巻市内の高校です」。それから石巻とその周辺の外に出たことは?「一度もありません」。


    こう言う人は、善良とか、慎み深いとか、相手を思いやるとか言わない。


    馬鹿です。


    自分が暴行を受けているのに、それに対して何もせず、正当な抗議もせず、自分で抱え込んで出社できなくなる。それは、馬鹿なんです。


    法律の世界に無知という概念は存在しません。無知は自己責任です。こんな仕打ちを延々と受けて、その人は心が傷つき、出勤も出来なくなった。しかし「こう言うことは、悪いことなんじゃないだろうか。誰か専門の人に相談するか、法律をググってみたらどうだろう」と思わず、ただ「上司に相談した」が上司はまともに取り合ってくれなかった。


    会社とか上司とかが、ウルトラマンみたいな正義の味方だと思い込んでるんです。いや、会社も上司もあなたの味方なんかしません。第一、石巻の会社はそもそも法律を知りません。知ろうとも思っていません。


    何故か石巻は、経営者も労働者も「法律」という言葉が思い浮かばないのです。労働者は「上司に相談したらどうにかしてくれるだろう」、経営者は「まあそのうちどうにかなるだろう」。


    それで、数多くのパワハラどころかこうした暴行罪、傷害罪、有印私文書偽造などの刑法犯罪の被害者が「石巻市は日本国の一部で、米軍以外は日本の法の支配の元にある」という事を思いつきもしないため、弱い方は極限まで追い詰められて人生を棒に振り、強い方は「またなあなあにすれば良いだろう」で済むのです。


    まあ6÷3=2が出来なくても高卒になってしまう土地ですから、労働基準法とか刑法なんて言う言葉すら知らないのは当たり前と言えば当たり前ですが、こういう人々を救うって、思わず天を仰いでしまいます。


    少しは勉強しろよ。でないと救えねーよ。
     
  • 投稿日時:2025/05/08

    社労士から今月の職員の給与明細が送られてきたのを見て、目が点になりました。


    「通勤手当に課税されている!」


    この国は終わった、と直感しました。

    ええと。こんな院長ブログは他にはないと思いますが、私はどうせ他の人が言わないことを言う人なので。

    通勤手当に課税する国は、もう終わりです。しかしかりそめにも民主主義ですから、私たち主権者が終わらせなければなりません。主権者が黙っていては、終わらせなければならない国が終わらないのです。通勤手当に課税する国は、終わらせなければなりません。それは今、私たち主権者の権利どころか、義務です。政府を取り替えればこの国はまともに舏るかどうか、正直言って私にも自信はありませんが、主権者である以上、沈黙したり黙認してはいけません。


    ともかくこの夏の参院選で、権力は交代させましょう!

  • 投稿日時:2025/05/07
    あゆみ野クリニックは無論地域医療を担う一つのクリニックですが、実は私にとっては一種の社会研究のフィールドでもあります。


    石巻という、国家資格である看護師を最低賃金で雇うような土地で、マルクスが言う条件を満たす給与、つまり「労働者が労働力を再生産できる額の給与」を出して、それで経営が成り立つのだろうか、と言うのを私は研究しているのです。


    「労働者が労働力を再生産できる額」、つまり労働者がその給料で自分一人が食べていくだけではなく、結婚し、子を育み、教育の機会を与え、次世代の労働者として立派に世に送り出すために必要な金額が「給与だ」とマルクスは言うのです。最低賃金なんてのは、当然そんなことは出来ない金額です。それでは石巻に於いて、マルクスが言うような給与を出してクリニックが成り立っていけるのかどうか。


    私は永年研究者をやってきました。今は、これが私の研究テーマです。はたして、石巻の医療機関の何所も出していない、しかし東京はもちろん仙台なら当たり前の給与を支払って、このクリニックは存続できるかどうか。これは、私の研究なのです。
     
  • 投稿日時:2025/05/04

    FBのれいわの支持グループで「資本論なんか読んだって無駄だ」と言った人がいて、「そうだそうだ」というコメントがたくさん付いていました。その中には「社会主義だって共産主義だって失敗したじゃないか」というコメントも多かったのです。


    そういうコメントを付けた人は、資本論を読んだことがないというのがすぐに分かります。だって資本論は「資本論」です。表題の通り、資本主義を研究した書物です。社会主義とか共産主義を論じた本ではありません。


    資本論は分厚い専門書ですから、みんなあれを読めとは言いません。しかし、「資本論が解明したポイント」は理解しておくべきです。どうせ短い文章しか読みたくない人は「一言で言え」というのでしょう。それなら一言で言います。


    マルクスは資本論で、資本主義経済で富が生まれる仕組みを解明しました。


    ほら一言で言いました。


    とは言え、そう言われたら「その富が生まれる仕組みってどういうことだ?」と訊きたくなる人が(多少は)いてくれると良いな、と私は思います。その多少の人々に説明します。彼が解明した「資本主義経済で富が生まれる仕組み」は実に簡単です。利益というものの基本と同じです。


    400円のケーキを仕入れて400円で売ったら儲けはありません。仕入れ値に何割か利益を乗せて売るのです。しかしそのケーキは何故そもそも仕入れるときに400円という値段で卸元が売ったのでしょうか。そういうことを根本までたどっていったとき「資本主義経済で富、つまり利益が生まれる基本原理は何か」を彼は見いだしたのです。


    経営者は、たとえば開業医の私は、開業するときたくさんの資本を投下して色々な設備を揃えます。まあ私は前の院長が急死してしまって空き家になったクリニックに居抜きで入ったのですが、その代わり以前から続いていた医療機器のリース代は私が替わって払うことになりました。大家はものすごい因業爺ですから、石巻の場末でなんと55m2で60万、税込み66万と言う家賃を支払っています。その他にも検査キットや試薬やらワクチンやら、あれやこれやお金を出して買います。


    しかしそう言うものを揃えても、それを使って仕事をしてくれる人がいなければクリニックは廻りません。そりゃ患者が1日数人しか来なければ受付から診察から検査から会計まで全部私がやる、と言うことも出来るでしょうが、それでは到底喰っていけるほどの患者さんは診療出来ません。どうしても窓口の医療事務の方、看護師さん、さらに私は会計とか税務とか全く分かりませんので会計士、社労士、税理士といった方々と契約します。


    自分で従業員を雇うにしろ、外部の会計士や社労士と契約するにしろ、私は一定の対価を払います。つまりその人達からお金を出して何かを買うのです。これはその他の必要な備品を買うのとまったく同じです。では、そうした人々から、私はなにを買うのでしょうか。それがマルクスの出した答えです。私は従業員なら給料、外の方なら契約料として、その人の「労働力」を買うのです。誰かを雇う、雇われるというのは「雇用契約」です。経営者と労働者が契約して、何かを売り買いするのです。その何かが「労働力」なのです。つまり、私は月給いくら、時給いくらというお金でその人の労働力を買うのです。


    では月給30万の人の労働によって生み出された価値が一月30万だったら?私にはなにも残りません。利益0です。ですから私は誰かを月30万で雇用したら、その人に30万円より多い価値を生み出していただかなくてはなりません。月給30万円で人を雇って、その人が35万、40万の売り上げを出して貰って初めて私に利益が残るわけです。


    要するにこれは、コロナの検査キット1250円で仕入れました。検査代は1250円では困ります、検査料は1500円ですというのと同じです。


    商売するときにものを仕入れるのも人を雇うのも同じだ、とマルクスは指摘したのです。原価より高い価値を生んで初めてそこに富が生まれるという事です。これを、彼は「剰余価値」と呼び、資本家が労働者から労働力を買ってその労働力の対価である給料よりも高い価値を生み出してそれが資本家のものになるという仕組みを「搾取」と呼んだのです。


    我々が普通「搾取」というのは、いわば「度を超した搾取」です。たとえば退勤のタイムカードを押した後に残業するのが常態化しているとある石巻市内の病院とかね。こういうのは「違法な搾取」です。しかし資本主義経済では、剰余価値が富の源泉なのですから、「合法な搾取」が認められているのです。要するに労働力もお金を出して買う「仕入れ」ですから、それを上回る価値を生み出して貰わないとクリニック廻りませんという事です。


    この仕組みを初めて明確に解明して指摘したのがマルクスの資本論で、それは未だに一切、誰からも、否定されていません。無論富というのは、古くはオランダのチューリップとか、不動産バブルとか、蜃気楼のような富というものが生じることはあります。しかしそんなものはいずれうたかたの夢と消えるのです。確実な富は、労働者が労働し、自分が資本家に売った労働力の対価以上の富を生み出すことによって生じます。

     

    またマルクスは、給料、つまり資本家が労働者に労働力の対価として支払う値段の基準についても述べています。それは、「その労働者が労働力を再生産できる額だ」というのです。分かりやすく言うと、その労働者が暮らせて、結婚して子を産み、その子を育て教育して再び立派な労働者として世に送り出せるだけの額を給料、つまり「労働力の対価」として支払わなければならないというのです。そうでなければ次世代の労働者が育たないから、そんな資本主義社会は行き詰まるというのです。


    以上が資本論の「キモ」です。要するにマルクスはこれを証明したのです。資本主義は剰余価値無しにはなり立ちません。労働力を月30万で買ってそれによって生じた富も30万では差し引き0です。月30万で買った労働力が25万しか売り上げを生み出さなければ、それは負債になります。どうしても、月給30万の労働者には35万、いや40万の売り上げを産んで貰わなければなりません。その差額は、経営者である私に入ります。それが資本家の利益であり、「剰余価値」なのです。


    しかしそれを野放しにすると、たとえば労働力を15万で買って50万の売り上げを生み出そうとか、さっき出した例のように労働力の一部に対価を支払わず富だけ得ようとか、いくらでもめちゃくちゃなことが起こります。禿鷹資本主義です。だからそれは規制しなければならないのですが、そういう無茶苦茶を規制するには、労働者自身が声を上げなければなりません。自分自身が困る人々が声を上げなければ、他に声を上げる人はいません。何所の国でも、発展当初はそういうめちゃくちゃがまかり通ります。しかしいずれ社会が成熟する過程で「おい、ふざけんなよ」という抗議の声を労働者自身が上げなければ、資本主義は歯止めがきかなくなるのです。資本家はそういう無茶苦茶な搾取をセーブする必要は感じません。むしろ搾り取れるだけ搾り取ります。ですから、無茶苦茶搾取される当事者である労働者が「ちょっと待て」と立ち上がらなければならない。それが


    「万国の労働者、団結せよ」


    になるわけです。資本家は資本主義社会の主人公だから強いのです。労働者は弱い。だから団結しなければ資本家と張り合えません。それも一つの会社、一つの社会、一つの国だけでは弱い。全世界の労働者が一丸となって団結して初めて資本家と張り合えるのだ、それがマルクスが主張したことです。


    現在でも、マルクスのこの論理と主張のどこにも間違いはありません。そのように労働者が絶えず団結して資本家と緊張関係を保てばこそ、資本家も「打ち壊しだ、デモだと大騒動になるよりは」と譲歩して、「では社会的に労働条件に約束を設け法律にしましょう、労働三法というものを作り、資本家、労働者双方がそれを守りましょう」という話になるわけです。そういうことは、黙っていては達成できません。まず不利益を被っている側、つまり労働者側が断固として立ち上がり、団結して立ち上がり、時には命をかけて資本家階級と対峙しなければ、現実化しないのです。黙っていて勝ち取れる利益はありません。


    これが、マルクスの資本論の要点です。ここを抑えるのは、資本主義経済の根本を知ることであって、限りなく重要なのです。

  • 投稿日時:2025/05/04

    最近私も診療にAIを活用していますが、AIは何所で拾ってきたのか、時にとんでもない答えを返してきます。今朝私はChatGPTに「傷寒論(しょうかんろん)の太陽(たいよう)、陽明(ようめい)、少陽(しょうよう)という順番を太陽、少陽、陽明に書き換えた最初の人物は誰か?」と質問したら、なんと「王叔和(おうしゅくか)だ」と返ってきたのです。なにを言っとるのかね君は?レベルの回答でした。
     
     
    私が漢方・中医学を勉強しているのはご存じと思います。漢方や中医学の代表的な古典の一つ「傷寒論(しょうかんろん)」は「傷寒」という、当時猛威を振るった感染性疫病の治療法をメインに論じています。傷寒という疾患は千何百年も前に中国で猛威を振るった疫病ですから「今のどの疾患のことだ」と詮索するのは無意味です。おそらく当時中国で猛威を振るった傷寒は、今では既に姿を消しているのでしょう。しかしその感染力、致死率とも凄まじいものだったことは他ならぬ傷寒論の序文に生々しく記されています。
     
     
    傷寒論の素晴らしいところは、この傷寒という疾患の自然経過を詳細に観察して、この疾患はステージングできる、と気がついたことです。基本パターンとしては6つのステージ、つまり太陽(たいよう)、陽明(ようめい)、少陽(しょうよう)、太陰(たいいん)、少陰(しょういん)、厥陰(けっちん)という順番で病態が重態になっていくというのです。だからそのステージ毎に(実際にはこの大まかな6つのステージの中でもさらに色々病態が分けられていて、その病態ごとに)、治療法を提示していきます。明らかに斬新なアイデアで、それまでの中国伝統医学には無かった考えです。著者は張仲景(ちょうちゅうけい)という人物で、後漢の末、長沙にいた人物という事になっていますが、これを真に受ける研究者は現在ほとんどいません。しかし後漢末というのはあの三国志の時代が始まるときで、その三国志時代の後ほんの短い間中国を統一した晋(しん)という国で王叔和(おうしゅくか)という人物が戦乱でバラバラになった傷寒論を再統一したという記録は残っています。と言うことは、傷寒論「初版」は本当に後漢の末頃書かれていてもおかしくはありません。だって晋代に散らばってしまったものを纏め直したという記録は残っているのですから。
     
     
    その後も中国は何度も戦乱の世が続き、せっかく王叔和が纏め直した版もまた行方不明になりました。それをもう一度復刻したのは宋朝です。それで、今傷寒論と言えば宋板傷寒論のこととなっています。
     
     
    しかし宋朝は北の遊牧民族にどんどん圧迫され、結局モンゴルによって滅ぼされました。モンゴル王朝である元は中国文化などあまり興味を示しませんでしたから、その宋板傷寒論もまた散逸して原本は残っていません。宋と同時代に北方の金という国にいた成無己(せいむき、11-12世紀)や元の後の明代に生きた趙開美(ちょうかいび)という人がもう一回纏め直し、あれこれ注釈を入れたものが今に伝わる最古の傷寒論です。
     
     
    それで、傷寒論では6つのステージは「太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰」だったのに、いつの間にか「太陽・少陽・陽明・・・」と陽明と少陽の順番が置き換わった本が世に流布しています。この順番を最初に置き換えたのは誰かというのが私の質問でしたが、それが晋代の王叔和の筈はありません。なぜなら彼よりずっと後の「宋板傷寒論」でもステージの順番は間違いなく「太陽・陽明・少陽・・・」ですから。
     
     
    実は、「太陽・少陽・陽明・・・」と並べるのは日本の本だけなのです。中国や韓国の資料は全て元通り「太陽・陽明・少陽・・・」となっています。ですから順番を入れ替えたのは王叔和ではなく、どこかの時代の日本人です。いったいChatGPT、どこからこんな妙な情報を喰ってきたのだか。
     
     
    仕方が無いのでググってみました。そうしたらグーグルにJ stageに掲載されている一本の論文が出てきました。田原英一氏らの「日本で傷寒論の順が太陽・少陽・陽明となった理由の一考察」というものです。これを読んで、なるほど江戸時代中期頃から色々な人が議論して、太陽の次を陽明より少陽にした方が臨床に良くあっていると考える人々が増え、それが現代の日本に引き継がれているという事が分かりました。
     
     
    謎は解けたのですが、田原氏らのこの論文に対し、「そんなことを議論する意味あるの?」的なコメントを付けた人がいました。それに答えて田原氏は


    自分は元々太陽、少陽、陽明と習った。しかし学び舎から外に出たら、様々な場面で「もともとの順番は間違いなく太陽・陽明・少陽なのに、日本の考え方はおかしい、間違っている」とまでは言わないまでも(と言うのは田原氏のエクスキューズでしょう)それに近い風当たりを感じていました、と言うのです。
     
     
    実は日本で最初に堂々と「傷寒論のステージ分類はそもそも太陽・陽明・少陽であって、それを何故勝手に太陽・少陽・陽明と日本漢方は書き換えたのか」、という問題提起をしたのは他ならぬ私の「高齢者のための漢方診療」初版でした。この本が(おそらく岩田健太郎先生が共著者に入ってくれたおかげでしょうが)思いのほか売れて、「なんだか日本漢方はおかしいことを言っているらしい」ということがあからさまに言われるようになったのです。それまで日本で漢方を勉強していた人たちは、皆日本の本だけで勉強していたので「もともとは太陽・陽明・少陽・・・だった」という事すら知らなかったのです。だから田原氏の言われる「風当たり」は私の本がきっかけの筈です。ちなみにこの本は、今は新版が出ています。
     
     
    しかし最近漢方界では、私はヴォルデモート宜しく「名前を言ってはいけないあの人、A man who you know」になったらしく、誰も私の名前は挙げないのです。しかし名前は挙げられないけれども私の仕事はこうやってまたしても日本漢方の「事実」を一つ明らかにすることに繋がりました。日本漢方に「風を当てた」のは、悪くなかったようです。

  • 投稿日時:2025/05/03
    たまには医学医療とは全然関係ない話を。


    与太話ですから、あちこち間違っているかも知れません。医学医療の話ならきちんと文献を調べて書きますが、晩酌の後の与太話ですからその辺はご容赦を。


    東京タワーの「タワー」とお墓の「卒塔婆」の語源が実は同じだと言ったら皆さん信じますか?


    実は同じなんです。語源はインド亜大陸に残るサンスクリット語の「ストゥーパ」です。インド,スリランカからタイ、カンボジアまで仏教地帯を訪れると大小たくさんのストゥーパがあります。仏教のストゥーパは、仏舎利、つまり仏様を火葬にしたとき残った骨の破片を祀る塔でした。日本の五重塔なんかも同じです。ええ、塔(とう)と言う言葉自体、じつはストゥーパが遙か遠くアジア大陸の東まで来て変形して出来た言葉です。つまり、タワーも卒塔婆も塔も、語源はストゥーパなんです。


    最近は「語族」という概念はあまり使われないのですが、やはり言語には「それぞれ関係がある言語」と「基本的に無関係な言語」というのはあります。


    どうも今で言うロシアと東ヨーロッパの境あたりにいた遊牧民族が、南下したのがインドのアーリア人、西に行って民族大移動を引き起こした連中がヒットラーが根拠が無いまま神聖化したアーリア人のようです。その中にはゴート族やガーリア人やあれやこれや、得体の知れない連中がたくさんいたのですが、それはもうかなり分裂した末です。その大本の民族というものが存在し、彼らの言葉が今でも世界中の言語の端々に残っているのです。タワー、卒塔婆、塔の源は同じだ、と言うのが一例です。


    Station(ステイション)、state(ステイト)という言葉もそうです。アフガニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタンとか、中央アジアの国々の名前には「スタン」とつきます。ローマ文字ならstan, キリル文字ではстанです。あのスタンはstation, stateと語源が同じです。おそらくcenterが元の意味に一番近いかも知れません。綴りはsからcに変わりましたが、Centre, centerも元は一つの単語に由来しているはずです。面白いことに、ギリシャ語にはこのstateやстанと語源を同じくする単語はありません。同じ意味のギリシャ語であれば、πόλις (ポリス)になります。しかしラテン語にはあるのです。Status(スタトゥス)です。つまりラテン語は必ずしもギリシャ語をそのまま引き継いではいません。ラテン語はギリシャ語由来の言語に、かなり多くのウラル・アルタイ語族の言葉をつぎ込んで出来ています。


    因みに、飛び地が一つあります。タイ語の「สถานี」(サターニー)、駅です。要するにこれは、英語のstationが訛ったものがそのまま定着したのです。日本でも明治時代、駅は「ステンショ」と呼ばれました。しかし漢字文化圏の日本では、それは昔からあった「駅」にすぐ置き換わりましたが、タイではstation(ステイション)が「สถานี」(サターニー)とタイ語化したまま残ったのです。


    ま、今宵はこの辺で。
     

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