売れっ子作家とまことの文

2025/04/29

大町桂月(おおまちけいげつ)と言って、どなたか「あああの作家か」と分かる人は、よほどの文学好きでしょう。しかし明治時代、彼はまさに売れっ子作家でした。夏目漱石や森鴎外などより遙かに有名で、彼の本は出版する度にベストセラーになりました。


大町桂月は、観光地を紹介する商売が得意でした。彼は各地の観光地に行っては得意の美文調でその観光地を賞賛したのです。ですから日本中の観光地が競って大枚払って彼を招き、本人お得意の美文で紹介して貰おうとしました。


しかしそう言う大衆人気作家としての大町桂月の名は、十和田湖などごく一部の観光地周辺を除き、殆ど忘れ去られています。売れっ子作家は歴史に残らないという典型の一人です。


ところが大町桂月の名は、別の意味で近代日本文学史に残ってしまいました。「残ってしまった」、つまり今となっては不名誉な形で残ったのです。


与謝野晶子が日露戦争に出兵し、結局戦場で命を落とした弟に詠んだ「君死にたまふことなかれ」を大町桂月は大々的に批判しました。「太陽」という、当時有名だった雑誌に桂月はこう書いたのです。


皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」



これに対する与謝野晶子の反論「ひらきぶみ」(明星に発表)は有名です。大町桂月の「絶叫せざるを得ざるものなり」に対し、与謝野晶子は当時の丁寧語である候文(そうろうぶん)を持って反論しています。候文は今の読者はすらすらとは読めないでしょうから、重要な一部を私が勝手に現代日本語に意訳します。


車中で何気なく手に取った「太陽」に大町様の批判文が載っていました。私のような者の歌をご覧戴き、批評してくださったことは忝(かたじけな)いと言うより恥ずかしいほどです。しかし、出征した弟の母や嫁をちからづけたいと言うことだけを思い都を離れた私にとって、御批評は服しかねます。


(そもそも)あの歌は、私が出征した弟に宛てた手紙の端に書き付けたものです。それの何が悪いのでしょうか。あれは歌です。


この国に生まれた私は、私たちは、この国を愛することは誰にも劣りません。堅苦しい(昔気質の)私たちの両親は堺の町で天子様を思い、お上の御用に自らを忘れること他にいなかったほどでした。


(中略)


しかし女というものは、戦は嫌いなのです。国のためだとは分かっています。どうか早く勝って戦争が終わるようにとも願っております。当家はこの戦争にできる限り協力しております。先日どなたかが書かれたような、戦争を賛美する人ほど実は義援金を惜しむなどと言うことは私どもには関係ないことです。


あなたもご存じの通り、弟は召されて勇ましく出征しました。万一のことがあった後のことなど、けなげに申して行きました。この頃新聞が持ち上げる勇士勇士が勇士なら、我が弟だって勇士です。しかし弟は、出征するときしげしげと妻や母や、また妻が身ごもっていた子どものことを案じていたのです。そのように人間の心を持っていた弟に、女の私は今時の戦争唱歌のようなことは歌えません。


私が「君死にたまふことなかれ」と歌ったことを(大町)桂月様は非常に危険な思想だと仰いますが、最近のように死ね、死ねと盛んに(世間が)言う、しかもそういうことを忠君愛国や、畏れ多くも教育勅語を持ち出してそういうことを言うことこそ、むしろ危険と言うべきでは無いでしょうか。よくは存じませんが、王朝文学(源氏物語など)にも、このように人に死ねというようなことを書き散らした文章はないと思います。戦争文学であった源平時代の文学にさえ、そんな文章はなかったはずです。


歌は歌なのです。歌を習ったからには、後の人に嗤われない、まことの心を詠いたいのです。まことの心を歌わない歌に、なんの値打ちがあるでしょうか?まことの歌や文章を作らない人に、何の見所があるのでしょうか。長い長い年月を経ても変わらない、まことの心のなさけ、まことの道理に私は憧れます。


結局、今に残ったのは与謝野晶子のこの「ひらきぶみ」でした。大町桂月は、軽々しく時流に乗って与謝野晶子を好戦的に批判した愚か者として名を残したのです。


今、ネットなどで有名な医者はたくさんいます。「ネットで有名な、本を書けばベストセラーになる何とか先生」はいくらでもいます。私は、そういう医者になるつもりは全くありません。まことの医療をやるつもりです。まことの医療のなかに、漢方という医療・医学も入っていると言うだけです。漢方を売り物にするつもりは、さらさらないです。まともな医療をやろうとするとどうしても漢方医学、中国伝統額を学ばなければならないから学んで、実践しているのです。私は漢方の名医になるつもりなんか、さらさらないんです。

 

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