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  • 投稿日時:2025/05/07
    あゆみ野クリニックは無論地域医療を担う一つのクリニックですが、実は私にとっては一種の社会研究のフィールドでもあります。


    石巻という、国家資格である看護師を最低賃金で雇うような土地で、マルクスが言う条件を満たす給与、つまり「労働者が労働力を再生産できる額の給与」を出して、それで経営が成り立つのだろうか、と言うのを私は研究しているのです。


    「労働者が労働力を再生産できる額」、つまり労働者がその給料で自分一人が食べていくだけではなく、結婚し、子を育み、教育の機会を与え、次世代の労働者として立派に世に送り出すために必要な金額が「給与だ」とマルクスは言うのです。最低賃金なんてのは、当然そんなことは出来ない金額です。それでは石巻に於いて、マルクスが言うような給与を出してクリニックが成り立っていけるのかどうか。


    私は永年研究者をやってきました。今は、これが私の研究テーマです。はたして、石巻の医療機関の何所も出していない、しかし東京はもちろん仙台なら当たり前の給与を支払って、このクリニックは存続できるかどうか。これは、私の研究なのです。
     
  • 投稿日時:2025/05/04

    FBのれいわの支持グループで「資本論なんか読んだって無駄だ」と言った人がいて、「そうだそうだ」というコメントがたくさん付いていました。その中には「社会主義だって共産主義だって失敗したじゃないか」というコメントも多かったのです。


    そういうコメントを付けた人は、資本論を読んだことがないというのがすぐに分かります。だって資本論は「資本論」です。表題の通り、資本主義を研究した書物です。社会主義とか共産主義を論じた本ではありません。


    資本論は分厚い専門書ですから、みんなあれを読めとは言いません。しかし、「資本論が解明したポイント」は理解しておくべきです。どうせ短い文章しか読みたくない人は「一言で言え」というのでしょう。それなら一言で言います。


    マルクスは資本論で、資本主義経済で富が生まれる仕組みを解明しました。


    ほら一言で言いました。


    とは言え、そう言われたら「その富が生まれる仕組みってどういうことだ?」と訊きたくなる人が(多少は)いてくれると良いな、と私は思います。その多少の人々に説明します。彼が解明した「資本主義経済で富が生まれる仕組み」は実に簡単です。利益というものの基本と同じです。


    400円のケーキを仕入れて400円で売ったら儲けはありません。仕入れ値に何割か利益を乗せて売るのです。しかしそのケーキは何故そもそも仕入れるときに400円という値段で卸元が売ったのでしょうか。そういうことを根本までたどっていったとき「資本主義経済で富、つまり利益が生まれる基本原理は何か」を彼は見いだしたのです。


    経営者は、たとえば開業医の私は、開業するときたくさんの資本を投下して色々な設備を揃えます。まあ私は前の院長が急死してしまって空き家になったクリニックに居抜きで入ったのですが、その代わり以前から続いていた医療機器のリース代は私が替わって払うことになりました。大家はものすごい因業爺ですから、石巻の場末でなんと55m2で60万、税込み66万と言う家賃を支払っています。その他にも検査キットや試薬やらワクチンやら、あれやこれやお金を出して買います。


    しかしそう言うものを揃えても、それを使って仕事をしてくれる人がいなければクリニックは廻りません。そりゃ患者が1日数人しか来なければ受付から診察から検査から会計まで全部私がやる、と言うことも出来るでしょうが、それでは到底喰っていけるほどの患者さんは診療出来ません。どうしても窓口の医療事務の方、看護師さん、さらに私は会計とか税務とか全く分かりませんので会計士、社労士、税理士といった方々と契約します。


    自分で従業員を雇うにしろ、外部の会計士や社労士と契約するにしろ、私は一定の対価を払います。つまりその人達からお金を出して何かを買うのです。これはその他の必要な備品を買うのとまったく同じです。では、そうした人々から、私はなにを買うのでしょうか。それがマルクスの出した答えです。私は従業員なら給料、外の方なら契約料として、その人の「労働力」を買うのです。誰かを雇う、雇われるというのは「雇用契約」です。経営者と労働者が契約して、何かを売り買いするのです。その何かが「労働力」なのです。つまり、私は月給いくら、時給いくらというお金でその人の労働力を買うのです。


    では月給30万の人の労働によって生み出された価値が一月30万だったら?私にはなにも残りません。利益0です。ですから私は誰かを月30万で雇用したら、その人に30万円より多い価値を生み出していただかなくてはなりません。月給30万円で人を雇って、その人が35万、40万の売り上げを出して貰って初めて私に利益が残るわけです。


    要するにこれは、コロナの検査キット1250円で仕入れました。検査代は1250円では困ります、検査料は1500円ですというのと同じです。


    商売するときにものを仕入れるのも人を雇うのも同じだ、とマルクスは指摘したのです。原価より高い価値を生んで初めてそこに富が生まれるという事です。これを、彼は「剰余価値」と呼び、資本家が労働者から労働力を買ってその労働力の対価である給料よりも高い価値を生み出してそれが資本家のものになるという仕組みを「搾取」と呼んだのです。


    我々が普通「搾取」というのは、いわば「度を超した搾取」です。たとえば退勤のタイムカードを押した後に残業するのが常態化しているとある石巻市内の病院とかね。こういうのは「違法な搾取」です。しかし資本主義経済では、剰余価値が富の源泉なのですから、「合法な搾取」が認められているのです。要するに労働力もお金を出して買う「仕入れ」ですから、それを上回る価値を生み出して貰わないとクリニック廻りませんという事です。


    この仕組みを初めて明確に解明して指摘したのがマルクスの資本論で、それは未だに一切、誰からも、否定されていません。無論富というのは、古くはオランダのチューリップとか、不動産バブルとか、蜃気楼のような富というものが生じることはあります。しかしそんなものはいずれうたかたの夢と消えるのです。確実な富は、労働者が労働し、自分が資本家に売った労働力の対価以上の富を生み出すことによって生じます。

     

    またマルクスは、給料、つまり資本家が労働者に労働力の対価として支払う値段の基準についても述べています。それは、「その労働者が労働力を再生産できる額だ」というのです。分かりやすく言うと、その労働者が暮らせて、結婚して子を産み、その子を育て教育して再び立派な労働者として世に送り出せるだけの額を給料、つまり「労働力の対価」として支払わなければならないというのです。そうでなければ次世代の労働者が育たないから、そんな資本主義社会は行き詰まるというのです。


    以上が資本論の「キモ」です。要するにマルクスはこれを証明したのです。資本主義は剰余価値無しにはなり立ちません。労働力を月30万で買ってそれによって生じた富も30万では差し引き0です。月30万で買った労働力が25万しか売り上げを生み出さなければ、それは負債になります。どうしても、月給30万の労働者には35万、いや40万の売り上げを産んで貰わなければなりません。その差額は、経営者である私に入ります。それが資本家の利益であり、「剰余価値」なのです。


    しかしそれを野放しにすると、たとえば労働力を15万で買って50万の売り上げを生み出そうとか、さっき出した例のように労働力の一部に対価を支払わず富だけ得ようとか、いくらでもめちゃくちゃなことが起こります。禿鷹資本主義です。だからそれは規制しなければならないのですが、そういう無茶苦茶を規制するには、労働者自身が声を上げなければなりません。自分自身が困る人々が声を上げなければ、他に声を上げる人はいません。何所の国でも、発展当初はそういうめちゃくちゃがまかり通ります。しかしいずれ社会が成熟する過程で「おい、ふざけんなよ」という抗議の声を労働者自身が上げなければ、資本主義は歯止めがきかなくなるのです。資本家はそういう無茶苦茶な搾取をセーブする必要は感じません。むしろ搾り取れるだけ搾り取ります。ですから、無茶苦茶搾取される当事者である労働者が「ちょっと待て」と立ち上がらなければならない。それが


    「万国の労働者、団結せよ」


    になるわけです。資本家は資本主義社会の主人公だから強いのです。労働者は弱い。だから団結しなければ資本家と張り合えません。それも一つの会社、一つの社会、一つの国だけでは弱い。全世界の労働者が一丸となって団結して初めて資本家と張り合えるのだ、それがマルクスが主張したことです。


    現在でも、マルクスのこの論理と主張のどこにも間違いはありません。そのように労働者が絶えず団結して資本家と緊張関係を保てばこそ、資本家も「打ち壊しだ、デモだと大騒動になるよりは」と譲歩して、「では社会的に労働条件に約束を設け法律にしましょう、労働三法というものを作り、資本家、労働者双方がそれを守りましょう」という話になるわけです。そういうことは、黙っていては達成できません。まず不利益を被っている側、つまり労働者側が断固として立ち上がり、団結して立ち上がり、時には命をかけて資本家階級と対峙しなければ、現実化しないのです。黙っていて勝ち取れる利益はありません。


    これが、マルクスの資本論の要点です。ここを抑えるのは、資本主義経済の根本を知ることであって、限りなく重要なのです。

  • 投稿日時:2025/05/04

    最近私も診療にAIを活用していますが、AIは何所で拾ってきたのか、時にとんでもない答えを返してきます。今朝私はChatGPTに「傷寒論(しょうかんろん)の太陽(たいよう)、陽明(ようめい)、少陽(しょうよう)という順番を太陽、少陽、陽明に書き換えた最初の人物は誰か?」と質問したら、なんと「王叔和(おうしゅくか)だ」と返ってきたのです。なにを言っとるのかね君は?レベルの回答でした。
     
     
    私が漢方・中医学を勉強しているのはご存じと思います。漢方や中医学の代表的な古典の一つ「傷寒論(しょうかんろん)」は「傷寒」という、当時猛威を振るった感染性疫病の治療法をメインに論じています。傷寒という疾患は千何百年も前に中国で猛威を振るった疫病ですから「今のどの疾患のことだ」と詮索するのは無意味です。おそらく当時中国で猛威を振るった傷寒は、今では既に姿を消しているのでしょう。しかしその感染力、致死率とも凄まじいものだったことは他ならぬ傷寒論の序文に生々しく記されています。
     
     
    傷寒論の素晴らしいところは、この傷寒という疾患の自然経過を詳細に観察して、この疾患はステージングできる、と気がついたことです。基本パターンとしては6つのステージ、つまり太陽(たいよう)、陽明(ようめい)、少陽(しょうよう)、太陰(たいいん)、少陰(しょういん)、厥陰(けっちん)という順番で病態が重態になっていくというのです。だからそのステージ毎に(実際にはこの大まかな6つのステージの中でもさらに色々病態が分けられていて、その病態ごとに)、治療法を提示していきます。明らかに斬新なアイデアで、それまでの中国伝統医学には無かった考えです。著者は張仲景(ちょうちゅうけい)という人物で、後漢の末、長沙にいた人物という事になっていますが、これを真に受ける研究者は現在ほとんどいません。しかし後漢末というのはあの三国志の時代が始まるときで、その三国志時代の後ほんの短い間中国を統一した晋(しん)という国で王叔和(おうしゅくか)という人物が戦乱でバラバラになった傷寒論を再統一したという記録は残っています。と言うことは、傷寒論「初版」は本当に後漢の末頃書かれていてもおかしくはありません。だって晋代に散らばってしまったものを纏め直したという記録は残っているのですから。
     
     
    その後も中国は何度も戦乱の世が続き、せっかく王叔和が纏め直した版もまた行方不明になりました。それをもう一度復刻したのは宋朝です。それで、今傷寒論と言えば宋板傷寒論のこととなっています。
     
     
    しかし宋朝は北の遊牧民族にどんどん圧迫され、結局モンゴルによって滅ぼされました。モンゴル王朝である元は中国文化などあまり興味を示しませんでしたから、その宋板傷寒論もまた散逸して原本は残っていません。宋と同時代に北方の金という国にいた成無己(せいむき、11-12世紀)や元の後の明代に生きた趙開美(ちょうかいび)という人がもう一回纏め直し、あれこれ注釈を入れたものが今に伝わる最古の傷寒論です。
     
     
    それで、傷寒論では6つのステージは「太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰」だったのに、いつの間にか「太陽・少陽・陽明・・・」と陽明と少陽の順番が置き換わった本が世に流布しています。この順番を最初に置き換えたのは誰かというのが私の質問でしたが、それが晋代の王叔和の筈はありません。なぜなら彼よりずっと後の「宋板傷寒論」でもステージの順番は間違いなく「太陽・陽明・少陽・・・」ですから。
     
     
    実は、「太陽・少陽・陽明・・・」と並べるのは日本の本だけなのです。中国や韓国の資料は全て元通り「太陽・陽明・少陽・・・」となっています。ですから順番を入れ替えたのは王叔和ではなく、どこかの時代の日本人です。いったいChatGPT、どこからこんな妙な情報を喰ってきたのだか。
     
     
    仕方が無いのでググってみました。そうしたらグーグルにJ stageに掲載されている一本の論文が出てきました。田原英一氏らの「日本で傷寒論の順が太陽・少陽・陽明となった理由の一考察」というものです。これを読んで、なるほど江戸時代中期頃から色々な人が議論して、太陽の次を陽明より少陽にした方が臨床に良くあっていると考える人々が増え、それが現代の日本に引き継がれているという事が分かりました。
     
     
    謎は解けたのですが、田原氏らのこの論文に対し、「そんなことを議論する意味あるの?」的なコメントを付けた人がいました。それに答えて田原氏は


    自分は元々太陽、少陽、陽明と習った。しかし学び舎から外に出たら、様々な場面で「もともとの順番は間違いなく太陽・陽明・少陽なのに、日本の考え方はおかしい、間違っている」とまでは言わないまでも(と言うのは田原氏のエクスキューズでしょう)それに近い風当たりを感じていました、と言うのです。
     
     
    実は日本で最初に堂々と「傷寒論のステージ分類はそもそも太陽・陽明・少陽であって、それを何故勝手に太陽・少陽・陽明と日本漢方は書き換えたのか」、という問題提起をしたのは他ならぬ私の「高齢者のための漢方診療」初版でした。この本が(おそらく岩田健太郎先生が共著者に入ってくれたおかげでしょうが)思いのほか売れて、「なんだか日本漢方はおかしいことを言っているらしい」ということがあからさまに言われるようになったのです。それまで日本で漢方を勉強していた人たちは、皆日本の本だけで勉強していたので「もともとは太陽・陽明・少陽・・・だった」という事すら知らなかったのです。だから田原氏の言われる「風当たり」は私の本がきっかけの筈です。ちなみにこの本は、今は新版が出ています。
     
     
    しかし最近漢方界では、私はヴォルデモート宜しく「名前を言ってはいけないあの人、A man who you know」になったらしく、誰も私の名前は挙げないのです。しかし名前は挙げられないけれども私の仕事はこうやってまたしても日本漢方の「事実」を一つ明らかにすることに繋がりました。日本漢方に「風を当てた」のは、悪くなかったようです。

  • 投稿日時:2025/05/03
    たまには医学医療とは全然関係ない話を。


    与太話ですから、あちこち間違っているかも知れません。医学医療の話ならきちんと文献を調べて書きますが、晩酌の後の与太話ですからその辺はご容赦を。


    東京タワーの「タワー」とお墓の「卒塔婆」の語源が実は同じだと言ったら皆さん信じますか?


    実は同じなんです。語源はインド亜大陸に残るサンスクリット語の「ストゥーパ」です。インド,スリランカからタイ、カンボジアまで仏教地帯を訪れると大小たくさんのストゥーパがあります。仏教のストゥーパは、仏舎利、つまり仏様を火葬にしたとき残った骨の破片を祀る塔でした。日本の五重塔なんかも同じです。ええ、塔(とう)と言う言葉自体、じつはストゥーパが遙か遠くアジア大陸の東まで来て変形して出来た言葉です。つまり、タワーも卒塔婆も塔も、語源はストゥーパなんです。


    最近は「語族」という概念はあまり使われないのですが、やはり言語には「それぞれ関係がある言語」と「基本的に無関係な言語」というのはあります。


    どうも今で言うロシアと東ヨーロッパの境あたりにいた遊牧民族が、南下したのがインドのアーリア人、西に行って民族大移動を引き起こした連中がヒットラーが根拠が無いまま神聖化したアーリア人のようです。その中にはゴート族やガーリア人やあれやこれや、得体の知れない連中がたくさんいたのですが、それはもうかなり分裂した末です。その大本の民族というものが存在し、彼らの言葉が今でも世界中の言語の端々に残っているのです。タワー、卒塔婆、塔の源は同じだ、と言うのが一例です。


    Station(ステイション)、state(ステイト)という言葉もそうです。アフガニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタンとか、中央アジアの国々の名前には「スタン」とつきます。ローマ文字ならstan, キリル文字ではстанです。あのスタンはstation, stateと語源が同じです。おそらくcenterが元の意味に一番近いかも知れません。綴りはsからcに変わりましたが、Centre, centerも元は一つの単語に由来しているはずです。面白いことに、ギリシャ語にはこのstateやстанと語源を同じくする単語はありません。同じ意味のギリシャ語であれば、πόλις (ポリス)になります。しかしラテン語にはあるのです。Status(スタトゥス)です。つまりラテン語は必ずしもギリシャ語をそのまま引き継いではいません。ラテン語はギリシャ語由来の言語に、かなり多くのウラル・アルタイ語族の言葉をつぎ込んで出来ています。


    因みに、飛び地が一つあります。タイ語の「สถานี」(サターニー)、駅です。要するにこれは、英語のstationが訛ったものがそのまま定着したのです。日本でも明治時代、駅は「ステンショ」と呼ばれました。しかし漢字文化圏の日本では、それは昔からあった「駅」にすぐ置き換わりましたが、タイではstation(ステイション)が「สถานี」(サターニー)とタイ語化したまま残ったのです。


    ま、今宵はこの辺で。
     
  • 投稿日時:2025/05/01
    E=mc²と言うのはアインシュタインが提出した有名な公式で、「物質とエネルギーは同じものだ」という意味です。


    われわれは物質と言えばそこにあるもの、つまりパソコンとか犬とか石とか自分など、「目に見える物体」を想起します。一方エネルギーというのは、何か働きはあるが目には見えないものだと直感的にそう思い込みます。しかしアインシュタインのこの公式が意味することは、物質とエネルギーは等価だ、同じものだというのです。


    中医学では「気」と言います。気の定義は「働きはあるが形は見えないもの」、英語で言うとSomething having function but no formです。しかしそう言うものと物質というのは突き詰めれば同じなのだというのがアインシュタインの公式です。人間の目に見えようが見えなかろうが、そんなことは問題ではない。何か働きがあるものはすなわち存在するのだ、と言うことです。


    人間の目に見えるかどうかなんて、極めて時代的制約を受けることです。インフルエンザという疾患の名前は、そもそもは「星の巡りの影響を受けて発症する」と考えられたから付けられた病名です。最近SNSで有名な人を「インフルエンサー」と言いますね。つまりインフルエンスという単語は「影響を与える」という意味です。当初はそれが星の巡りの影響(influenzas)を受けて発症すると考えられたから「インフルエンザ」なんです。


    ところが、顕微鏡というものが発見されると、インフルエンザで肺炎になった人の肺から、たいていある細菌が見つかるようになりました。だから世の医学者は、「この細菌こそインフルエンザの病原体だ」と考え、その細菌にHaemophiles influenzae(ヘモフィルス・インフルエンゼ)という名を与えました。お前がインフルエンザを起こしているんだ、と言うわけです。


    ところがところがです。電子顕微鏡というものが発明され、細菌より遙かに小さいウィルスというものが目に見えるようになると、実はインフルエンザの病原体はインフルエンザ菌(ヘモフィルス・インフルエンゼ)ではなく、インフルエンザウィルスだったという事が明らかになりました。


    ヘモフィルス・インフルエンゼという細菌の大きさはインフルエンザウィルスのざっと5倍から25倍です。「はるかに大きい」のです。だからヘモフィルス・インフルエンゼという細菌は光学顕微鏡で見えますがインフルエンザウィルスは電子顕微鏡を使わないと見えません。まさに「目に見えるかどうかが存在するかどうかではない」と言うことの例証です。


    つまり、今我々の目には見えないけれども実在するものは、たしかにあります。そしてそれを最終的に結論づけたのがアインシュタインの公式「E=mc²」だったのです。


    ここでいきなり我が家の家庭問題に移ります。今日晩飯時に、私と相方は大げんかしました。それは、過去に起こった事件について誰がなにを言ったという事を相方が蒸し返したからです。あの時俺がなにを思い、どう行動したか、こんなに真剣に話しているのに、お前は誰かさんがこう言ったと言って私に皮肉の顔を浮かべるのか、と私は怒ったのです。


    そうなんです。心というのも一種のエネルギーです。物質が変化するように、心というエネルギーも変化します。だってエネルギーと物質は等価ですから。しかし、消えてなくなることはないんです。


    目の前のペンがいきなり消えてなくならないように、感情もなくなりません。ペンは物質で感情はエネルギーですが、エネルギーと物質が等価、つまり本質的には同じである以上、物質が消えてなくならないように感情というエネルギーも消えてなくなることはないのです。喜びも悲しみも、怒りも憎しみも、そして怨念もです。善い感情も悪い感情も、結局それは心というエネルギーであり、エネルギーが物質と等価である以上、消えてなくなるという事はありません。


    無くならないのです。あなたの抱えている悲しみも苦しみも怒りも憎しみも、無くなりません。なぜならそれは心であり、心はエネルギーであり、エネルギーは物質と等価だからです。あなたの目の前の雑誌とかペンが無くならないように、あなたの感情も無くなりません。


    しかし、目の前のペンとか雑誌は、いつの間にかどこかに行ってしまいます。人並み外れて几帳面な人は別ですが、たいていの人は、たった今目の前に存在する何か雑多なものが、放り投げているうちにいつかどこかになくなると言うことをなんども経験しているはずです。


    無論、魔法の世界ではないので、と言うよりハリー・ポッターによると魔法でもものを本当に消滅させる魔法はないというのですから、今あなたの目の前にある雑多なものがいつかどこかに消えて「あれ、あの本何所にいったんだろう」と思っても探し出せないのは、その本が物質として消滅したわけではありません。それはどこか分からないところに投げ捨てられたか捨てられたかしたはずです。


    実は、物質に於いてそういうことが生じるように、感情に於いてもそういうことは生じます。「いっそ殺してやりたい」と思うほど憎らしい相手も、職場が変わり、その人物と何年も顔を合わさなくなってみれば記憶からも消え、たまに記憶に上っても「なんだあの馬鹿」で済んでしまうのです。逆にその時盛んにお熱をあげた人も、時間が経って忘れてしまうと、たまに思い出してメールしても「このメールは現在使われておりません」となります。つまり人間の感情も記憶も物質なので、変化するのです。まさに「色即是空・空即是色」です。


    話は長くなりました。この辺でお終いにしましょう。要するに、憎しみとか愛情という感情はアインシュタインの公式が正しい以上物質として変化するのです。永遠の物質がないように、永遠の感情もないのです。あなたの今の憎しみも、いつかはどこかに行ってしまいます。消えはしませんが、どこかに行ってしまうのです。同時に、今あなたが誰かを心から愛していて、この人無しでは自分は生きていられないと思っていても、そういう感情もいつかはどこかに行ってしまうのです。それは過酷か慰めか。それはどちらとも言えるでしょうが、今日私が言いたかったことはそういうことです。

     
  • 投稿日時:2025/05/01
    石巻は、無論港町です。石巻港(行政上は仙台港石巻地区)を中心として街の経済が成り立っています。ですから、当院には他ではやらないような医者の仕事があり、また他の土地で医療をするのとは違う問題があります。


    たとえば、船員の健康診断。国内航路だけの船員なら日本語で書けばよいのですが、国際航路に従事する人には、英語で書かなくてはなりません。決まり文句は二つです。


    Fit for sea duties.
    Fit for look-out duties.


    上は船舶業務可能という意味であり、下は見張り業務可能です。レントゲン、心電図、医師の診断も全て英語で書かなくてはなりません。日本語なら「異常無し」と書きますが、英語はストレートですからNormal、正常と書きます。このあたりは、英語と日本語のニュアンスの差を感じます。


    まあそれは良いのですが、しばしば問題になるのが高血圧、糖尿病、高脂血症のような「町医者なら誰でも診る慢性疾患」です。普通そういう患者は主治医がなんとなく決まっていて、変わりなければ2ヶ月に一度主治医を受診します。しかし遠洋航路の船員はそうは行きません。何しろ一度船に乗れば、次に下船するのは少なくとも三ヶ月後。しかも何所に下船するかは決まっていません。石巻から出港したとしても、次に停泊する場所は全く別なのです。


    こうなると、誰が主治医なのか分かりません。何所の医者も困り果て、ちょっと血圧コントロールがマズいな、糖尿病がマズいなと思っても、次にその患者をfollowすることが出来ないので、どうしても「前医の処方どおり」になってしまいます。かくしてHbA1cが8を超えている船員さんや血圧が160を超えている船員さんは少なくありません。と言うという当院も、そう患者を診て、マズいなあ、処方変更しないと、と思っても、御本人に訊くと「翌週出港して、次にどこかに停泊するのは3,4ヶ月後で、ものすごく遠方の私は全く知らない街に停泊します」というわけです。それでは処方を変更したその後を追いかけることが出来ません。その人が次にひょっこり当院に来るのは1年後、2年後だったりするわけです。
    薬を変更した後を確認できないのに処方を変えて、洋上で何か起きたらどうにもなりません。


    こういう人々の健康管理は、非常に大きな問題を抱えているのです。港町石巻ならではの健康問題です。
     
  • 投稿日時:2025/04/29
    大町桂月(おおまちけいげつ)と言って、どなたか「あああの作家か」と分かる人は、よほどの文学好きでしょう。しかし明治時代、彼はまさに売れっ子作家でした。夏目漱石や森鴎外などより遙かに有名で、彼の本は出版する度にベストセラーになりました。


    大町桂月は、観光地を紹介する商売が得意でした。彼は各地の観光地に行っては得意の美文調でその観光地を賞賛したのです。ですから日本中の観光地が競って大枚払って彼を招き、本人お得意の美文で紹介して貰おうとしました。


    しかしそう言う大衆人気作家としての大町桂月の名は、十和田湖などごく一部の観光地周辺を除き、殆ど忘れ去られています。売れっ子作家は歴史に残らないという典型の一人です。


    ところが大町桂月の名は、別の意味で近代日本文学史に残ってしまいました。「残ってしまった」、つまり今となっては不名誉な形で残ったのです。


    与謝野晶子が日露戦争に出兵し、結局戦場で命を落とした弟に詠んだ「君死にたまふことなかれ」を大町桂月は大々的に批判しました。「太陽」という、当時有名だった雑誌に桂月はこう書いたのです。


    皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」



    これに対する与謝野晶子の反論「ひらきぶみ」(明星に発表)は有名です。大町桂月の「絶叫せざるを得ざるものなり」に対し、与謝野晶子は当時の丁寧語である候文(そうろうぶん)を持って反論しています。候文は今の読者はすらすらとは読めないでしょうから、重要な一部を私が勝手に現代日本語に意訳します。


    車中で何気なく手に取った「太陽」に大町様の批判文が載っていました。私のような者の歌をご覧戴き、批評してくださったことは忝(かたじけな)いと言うより恥ずかしいほどです。しかし、出征した弟の母や嫁をちからづけたいと言うことだけを思い都を離れた私にとって、御批評は服しかねます。


    (そもそも)あの歌は、私が出征した弟に宛てた手紙の端に書き付けたものです。それの何が悪いのでしょうか。あれは歌です。


    この国に生まれた私は、私たちは、この国を愛することは誰にも劣りません。堅苦しい(昔気質の)私たちの両親は堺の町で天子様を思い、お上の御用に自らを忘れること他にいなかったほどでした。


    (中略)


    しかし女というものは、戦は嫌いなのです。国のためだとは分かっています。どうか早く勝って戦争が終わるようにとも願っております。当家はこの戦争にできる限り協力しております。先日どなたかが書かれたような、戦争を賛美する人ほど実は義援金を惜しむなどと言うことは私どもには関係ないことです。


    あなたもご存じの通り、弟は召されて勇ましく出征しました。万一のことがあった後のことなど、けなげに申して行きました。この頃新聞が持ち上げる勇士勇士が勇士なら、我が弟だって勇士です。しかし弟は、出征するときしげしげと妻や母や、また妻が身ごもっていた子どものことを案じていたのです。そのように人間の心を持っていた弟に、女の私は今時の戦争唱歌のようなことは歌えません。


    私が「君死にたまふことなかれ」と歌ったことを(大町)桂月様は非常に危険な思想だと仰いますが、最近のように死ね、死ねと盛んに(世間が)言う、しかもそういうことを忠君愛国や、畏れ多くも教育勅語を持ち出してそういうことを言うことこそ、むしろ危険と言うべきでは無いでしょうか。よくは存じませんが、王朝文学(源氏物語など)にも、このように人に死ねというようなことを書き散らした文章はないと思います。戦争文学であった源平時代の文学にさえ、そんな文章はなかったはずです。


    歌は歌なのです。歌を習ったからには、後の人に嗤われない、まことの心を詠いたいのです。まことの心を歌わない歌に、なんの値打ちがあるでしょうか?まことの歌や文章を作らない人に、何の見所があるのでしょうか。長い長い年月を経ても変わらない、まことの心のなさけ、まことの道理に私は憧れます。


    結局、今に残ったのは与謝野晶子のこの「ひらきぶみ」でした。大町桂月は、軽々しく時流に乗って与謝野晶子を好戦的に批判した愚か者として名を残したのです。


    今、ネットなどで有名な医者はたくさんいます。「ネットで有名な、本を書けばベストセラーになる何とか先生」はいくらでもいます。私は、そういう医者になるつもりは全くありません。まことの医療をやるつもりです。まことの医療のなかに、漢方という医療・医学も入っていると言うだけです。漢方を売り物にするつもりは、さらさらないです。まともな医療をやろうとするとどうしても漢方医学、中国伝統額を学ばなければならないから学んで、実践しているのです。私は漢方の名医になるつもりなんか、さらさらないんです。

     
  • 投稿日時:2025/04/27
    あゆみ野クリニックは、「まっとうな診療」をやります。たとえば先日、漢方外来初診に「ほてり、頭痛」を主訴とした40代後半男性が来ました。話を聞くと最近健診で再三血圧が高いことを指摘され、近医を受診したらアムロジピンという薬を出されたというのです。しかしその人のほてりや頭痛は全くよくならなかったので、当院漢方外来に来たそうです。


    アムロジピンを出したその医院の診療の仕方を私は知っていましたので、そのクリニックに最初に掛かって何か検査をされましたか?と訊きました。すると「検査はなにも受けていません。何かの書類にサインさせられてこの薬が出ただけです」というわけです。


    何かの書類というのは、生活習慣指導の書類でしょう。昨年6月から糖尿病、高血圧、高脂血症は従来の「特定疾患」から外れ「生活習慣病」となり、「生活習慣指導をすること」と国が決めたのです。生活習慣病管理料を貰うための書類にサインさせられたという事です。


    しかし問題は、「血圧が高い」という人の約10%にホルモン異常の人がいるという事です。甲状腺機能亢進症、副腎ホルモン異常、副腎ホルモンと腎臓のホルモンとのバランス異常、そして脳下垂体の異常。これらを全部合わせると、なんと「血圧が高い人」の10%にも上るのです。ですから、「血圧が高い」という患者になにも検査をせず黙って降圧剤を出すというクリニックは、10%ものホルモン異常を無視しているという事になります。

    アムロジピンは非常によい降圧剤です。よいという意味は、私が医者になった1990年当時既に広く使われていて、その効果の程度と副作用がどういうものか、まともな内科医なら皆分かっているという事です。しかしアムロジピンの非常に多い副作用がほてりと頭痛です。ですからほてり、頭痛を主訴とする高血圧の患者に、私ならアムロジピンを最初に選択するという事はしません。



    あゆみ野クリニックは高いという評判があるようです。それは、こういう検査をきちんとやるからです。正直言ってこうした採血というのは、値段の殆どを検査会社が持っていきます。ですから、真面目にホルモンの採血をしても,窓口の会計は高くなりますが当院の利益は微々たるものです。だからこそ、患者がたくさん詰めかけるクリニックは、こう言う真面目な検査をやらないのです。たいして利益になりませんから。


    しかし私は石巻で「まっとうな医療をやる」と決めたのです。ともかく医療費は安く上げたい、だから健診で血圧が高いと言われたら薬だけ出してほしいという患者さんはいくらでもいます。私はそういう診療をしているクリニックを知っていますから、「あなたにはあそこをお勧めします」とやります。10%のホルモン異常が含まれることを知りながら敢えて無視するクリニックです。


    それは、突き詰めると患者が自分の身体をどうするか決めることです。きちんとした検査に出すお金を惜しんで「薬だけほしい」という人は、そういうクリニックをご紹介しますからお問い合わせください。「あそことかあそこです」と教えて差し上げます。あゆみ野クリニックはそういう診療はやらないのです。まっとうな診療をやります。必要な検査はやるし、無駄な検査はやりません。あくまで「まっとう」を貫きます。そのお金を掛けたくない人は、当院に来なくて良いです。そういういい加減な診療をやっている医療機関をちゃんと教えてあげますから、そちらに行って下さい。


    石巻だから、みんなお金がないから、必要な検査もやらずに薬だけ出す。それは、先行する医療機関が既にやっています。あゆみ野クリニックは後から割り込んだクリニックだから、他がやらない医療、つまり「まっとうな医療」をやります。まっとうな医療が差別化だなんて嘆かわしい限りですが、「ともかく医療費は安く安く」というニーズがあまりに多いから、いくつかの石巻医療圏のクリニックは堕落しました。血圧が高いと言ってやってきた人に、症状も訊かず検査もやらずに黙ってアムロジピンを出すというように。そういうクリニックは1日100人以上もの患者が押しかけて大繁盛していますから、今更そういう診療を改めようとはしないでしょう。しかしあゆみ野クリニックはそういう診療はしません。「安いが一番」という人はどうぞ他所に行って下さい。そういうクリニックはどこか知りたい人がいれば、お電話くだされば教えます。あゆみ野クリニックには「石巻でもちゃんとした医療が受けたい人」が来て下されば、それでいいんです。
     
  • 投稿日時:2025/04/22
    「前回り受け身」


    県立千葉高校では、3年間の内一年は、体育で武術を一つ学ぶ決まりでした。私は東邦中学校で剣道を選択して散々いやな目に遭ったので、千葉高では柔道を選択しました。しかし柔道の先生は一、二度私を教えて「こいつに柔道の素質は全くない」と見抜き「お前は前回り受け身だけ覚えれば合格させてやる」と言いました。


    前回り受け身。


    見事な技に掛かって吹っ飛ばされたとき、身を守る技です。完全に一本取られたとき、死なないための技です。


    この前回り受け身の重要さを、実は私は高校生の内に実感しました。自転車に乗って通学する途中、車にはねられたのです。身体が宙に飛びました。しかしその瞬間、私はまさに前回り受け身の体勢で道路に手を付きました。腕は傷つきましたが、どうにか助かりました。


    大学生になってからもう一回私は車にはねられましたが、その時も私は前回り受け身で助かりました。


    しかし人生では車だけでなく、何回も強大な力に撥ねられました。そのたびに私は前回り受け身で身を守ったのです。


    人生、攻撃を仕掛けられることは何回でもあります。攻撃こそ最大の防御とは言え、いきなり攻撃を仕掛けられることもあるのです。その時、どう攻撃を受け止めるか。


    前回り受け身を身につけるのは、とても大事です。
  • 投稿日時:2025/04/19
    私は医者ですが、別に医者が鍼治療をしてはいけないという決まりはありません。むしろ鍼灸師の資格を定める法律の冒頭には、「医師で無いものがこれこれの治療を行うためには」とあるのです。つまり医師免許さえあれば、鍼灸按摩、何でもやって良いのです。

    ただ面倒なのは、そもそもほとんどの医師は鍼灸案ままサージについて一切教育も研修も受けていません。何も知らないのです。もう一つは、「混合診療の禁止」というルールです。これは、「保険診療と自費診療を同時に行ってはならない」という国のルールです。

    しかし、私は時々患者さんに針を打ちます。典型的なケースはむち打ちとぎっくり腰です。こういう急性の痛みには、針が一番速攻します。どんな痛み止めより効くし、そういう効果には今や世界中で無数のエビデンスが出ています。

    だから私は患者さんがむち打ちだ、ぎっくり腰だと言ってやってきたとき鍼は打ちますが、その鍼治療の代金は請求できないのです。無論、最初から自費診療なら問題はありませんが、正直に言うと、私の鍼治療の腕前は「門前の小僧」に過ぎません。とあるところで鍼灸師さんの施術を間近にして、ちょっと教わっただけです。系統的に経絡弁証に基づく針灸治療を学んだわけではありません。

    しかし、むち打ちやぎっくり腰など、突然の痛みに対して一番即効性があるのが鍼治療ですから、私はそういう患者に鍼は打ちますが、その料金は貰いません。と言うか、貰えないのです。どのみち痛み止めと湿布ぐらいは処方しますから、診療費と処方箋発行料だけです。

    こういうのは、痛くもない腹を探られないように、慎重にしなければなりません。何しろ、敵はどこにいるか分からないのですから。

     

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